加古川80選めぐり 1

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1.みとろフルーツパーク・みとろ観光果樹園
  
   
熱帯果樹と観葉植物が約3,800本あり、年中南国気分が味わえるクリスタルアーチ(ガラス温室)、野菜のもぎ取り等の農業体験ができる観光農園、明石海峡大橋まで見渡せる展望台等の施設があります。
空気のきれいな市北部の見晴らしのよい丘の上にあり、バーべキューも楽しめます。
隣接するみとろ観光果樹園では、初夏から秋にかけてスモモやブドウをはじめ、栗や柿の果物狩りができ、一日中楽しめるところです。


「見登呂姫」の石仏」 
近くには井ノ口構居があり、志方城主の志方家則の次男・孫次郎家金が城主です。 六代将軍・足利義教の首を取った赤松満祐の時代、この井ノ口は家治が城主でした。

家治には娘・見登呂姫があり、満祐の家来の若者が、その美しさに心を奪われたのです。 若者は想いを告白したのですが、見登呂姫はそれを断りました。

腹を立てた若者は、姫の命を奪い裏山に埋めてしまったそうです。 村人たちが姫の死を知り、石仏を刻んだ跡なのです。

4.高御位山
  
  
加古川市と高砂市との市境にある山で、「播磨富士」とも呼ばれています。標高は約304mで、古くから山全体を御神体とした山岳信仰の名残を今も伝えています。
山頂には、高御位神社や大正10年にグライダーで関西発飛行を成し遂げた、志方町出身の渡辺信二氏の偉業をたたえる「飛翔の碑」が建っています。
山頂からの見晴らしは抜群で、天気が良ければ遠く淡路・四国まで見渡せ、毎年元旦には御来光を見るために多くの参拝者で賑わいます。


5.平荘湖
     
昭和41年に東播磨工業地帯の工業用水の安定供給を目的とした建設されたダムによってできた人造湖です。
湛水面積約1k平方メートル、貯水量900万トンで、1日20万トンの配水能力をもっています。
湖面にはひょうたん型の島が浮かび、周辺は自然景観の美しいところです。
春は桜、みもざ、夏はあじさい、秋は紅葉と四季と通じて楽しめる自然がいっぱいです。
そして冬は鴨などの渡り鳥が訪れ、その種類も豊富で、観察小屋もあります。 周辺道路は約5kmで、多くの人がジョギングやウォーキングを楽しんでいます。
湖畔には「市立少年自然の家」や「平荘湖アクア交流館」などの施設があります。


7.鶴林寺
  
   
589年、聖徳太子が16才の時、秦河勝に命じ仏教をひろめるための道場として建てられました。
釈迦三尊と四天王を祀り、「四天王寺聖霊院」と称されたのが、この寺のはじまりと云われ、播磨の法隆寺とも呼ばれています。
平安時代の壁画が見つかった県下最古の木造建築物、国宝「太子堂」や、泥棒が盗み出し壊そうとしたら「アイタタ」という声が聞こえてきたため、改心したと云われている「金銅聖観音像」など、多くの仏教美術が残されています。


8.教信寺
  
天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。 奈良時代前期の僧・沙弥教信がこの野口に庵をつくりました。
念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれていました。
庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが教信寺です。 境内の左手奥に教信上人廟があります。
春には、満開の桜が境内を彩ります。 


野口城跡を祀る神社

 野口城の説明板
教信寺の東側の道を少し北へ入った所にあります。

天正六年(1578) 二月、秀吉は加古川城に播磨の諸豪族を集め、毛利討伐の軍議を開きました。 
軍議の後、三木城主・別所長治は信長に叛旗を翻し、戦うことを周囲の諸氏に伝えました。

志方城主・櫛橋左京亮、神吉城主・神吉民部少輔、淡河城主・淡河弾正忠、高砂城主・梶原平三兵衛、端谷城主・衣笠豊前守、そして野口城主・長井四郎左衛門らは別所氏に従うことを誓いました。

三木城は秀吉に包囲される中、秀吉軍へ夜襲を行う作戦を属城に伝えるため、三木城から出た使者は加東郡河合から加古川を下り、高砂城・野口城・神吉城・志方城へと伝え、一斉に秀吉陣に攻撃をしかけたのが三木合戦の始まりです。

秀吉は三木城を見下ろすことができる平井山に陣を構えて包囲を固め、糧道を断つ兵糧攻めの作戦をとりました。 そして、加古川、印南、室山、国包、鳥町、平田のほか東条街道にも附城を構え、まずは野口城から攻めたのです。

野口城の周囲は沼田で、敵味方が泥中で戦いました。 秀吉は雑草や青麦を刈りとらせ、沼や堀を埋め、この辺りを平地にして三日三晩攻め続け、ついに野口城主は降伏したのです。 

15.春日神社・ニッケ社宅倶楽部
  
   
公園内にあるこの神社は、文治2年(1186)ごろ、時の雁南庄の領主、糟屋有季が奈良本宮の春日大社から分霊を迎えて建立しました。
加古川城主・糟屋武則は有季の子孫です。
この赤壁さんには化猫話が伝えられており、映画化もされました。
近くには春になれば庭の桜が見事な加古川に現存する唯一の異人館、ニッケ社宅倶楽部があります。   


18.称名寺
  
  
真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
寺の付近は加古川城です。 天正5年(1577)、太閤秀吉が糟屋の館へ立ち寄た折、当時の城主加須屋助右衛門は秀吉について小姓頭になり、賤ヶ嶽七本槍の1人として武名をあげました。
境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。
山門を入るといちょうの大木があり、昔から加古川の町の目印でした。


 七騎供養塔

加古川橋の西岸にある「七騎塚の碑」
境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。

暦応四年(1341)、塩谷高貞(塩冶判官高貞)の妻・早田夫人(顔世御前)は、尊氏の執事・高師直の横恋慕を受け、それを拒むと逆心ありと言われました。
高貞は妻・子に二十余名をつけ丹波路から脱出させ、自身は手勢三十騎を連れて播磨路を出雲へと急ぎました。
足利尊氏の軍勢に追いつかれた時、弟・六郎や他郎党七人が主を討たせまいと、この場で足利の軍勢と戦い全員討ち死にをするのです。
高貞の妻子は、姫路市豊富町の播磨蔭山で追いつかれ、立てこもっていた草堂に火を放ち、命果てたのです。 圓通寺に顔世御前のお墓があります。 

20.長楽寺
  
  
浄土宗の寺院で、和銅6年(713)慈心上人(じしんしょうにん)の開祖です。
高倉天皇が中宮建礼門の安産を念じ、丹後老の坂の地蔵尊に祈願されました。 すると、いとも簡単に玉のような皇子を拾いあげたことから、平清盛に命じて、全国六十余州の国々に一体ずつ安置させたものが、本尊の「木造地蔵菩薩半跏像(もくぞうじぞうぼさつはんかぞう」です。
「谷の子安地蔵」として安産祈願に訪れる人が絶えません。
春の桜と秋の紅葉も見事です。  


官兵衛の妻・光ゆかりの地

24.駒の蹄(ひづめ)と投げ松
   
  
県内の多くの寺院に開基伝説を法道仙人が一乗寺から投げた松と云われる「投木の松」は神としてまつられています。
県道沿いには、法道仙人が馬で空を駆けたと云われる駒の蹄が大切に残されています。


25.安楽寺
   
   
もとは真言宗の寺院で、弘法大師の弟子・真紹上人(しんしょう)が開山しました。
長い間、山頂にありましたが天授6年(1380)、山麓に移され、赤松氏の没落後、浄土宗寺院として再建されました。
境内の十王堂には、17世紀後半の作と云えられる地獄と極楽を対比した地獄極楽絵図と十王像が納められています。

 
 
五輪塔は、昔から地蔵石仏を「とんが地蔵」と呼び、この五輪塔を「とんが五輪」と呼んでいます。
伝説では武士の供養塔で、南北朝の頃のものと云われています。

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