敦賀城

敦賀市結城町

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北陸自動車道「敦賀IC」から西へ、国道8号線・JR北陸本線を越えて敦賀の街へと入ります。

大きな「気比神社」を西へ進むと敦賀西小学校、正門には大きな敦賀城の案内碑があるよ。
  
  
小学校から北西、真願寺です。 三層の天守があった敦賀城、北側の川が堀跡だね。

でも一国一城令で破却、礎石がお寺に残っているんだよ。 明治の廃藩置県で敦賀県となり、県庁が旧陣屋に置かれた。

敦賀県は滋賀県と石川県に分かれ、その後福井県ができた時、県庁は敦賀には戻らなかったんだね。

  
「敦賀西小学校の碑」

すごく大きな碑、寛永元年(1624)には小浜藩主の京極忠高が治め、のち酒井忠勝が支配するんだ。

大谷吉継という人物、石田三成と親しかった。西軍で敗れた人は、すごく気になる。

関ケ原探索に行った時、もっと詳しく確かめてみよう。
 
  
天正十一年(1583)、蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同十七年に頼隆が病死すると、領主は秀吉配下の大谷吉継と交代しました。

吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていきました。 三層の天守閣をもつこの城は、現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものです。

慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は敗れ自刃します。 元和元年(1615)の一国一城によって城は破却されました。

寛永元年(1624)、小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同十一年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたりました。

そのため旧敦賀城の中心部に藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付一名、町奉行二名、代官二名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたりました。

『現地案内を参照』

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