姫路城

兵庫県姫路市本町

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室町時代、南北朝時代そして戦国時代、日本全国で二万五千ものお城が造られました。

全てが姫路城のようなお城ではなく、小さな戦闘用の砦ぐらいのお城がいっぱいあります。

その一つ一つには時代を必死で生き抜いてきた人々の思いがあるのです。
   
   
その名にふさわしい白鷺城(はくろ・しらさぎ)は、播磨国姫路市の中心に位置します。

JR姫路駅の北側のメイン通りを歩いて15分ぐらいです。 雄大で優雅な姿は昭和六年に国宝、平成五年には世界文化遺産に指定されました。

当時の石垣はかなり広い範囲で、今でも駅から歩いて行くと、所々にその名残りが発見できると思います。
新幹線姫路駅のホームからは、ほんの1mぐらいの隙間からしか見えないのは少し残念ですが、そんなに急そがなくても、たまにはゆっくりとお城探索をしてみてください。

   
 
「赤松則村(円心)が姫山に砦を造った時代」

鎌倉幕府の中期には、皇室が持明院党と大覚寺党に分かれて、皇位や院政を行う権利をめぐり争っていました。

幕府は両者が交代で皇位につく方式(両統迭立:りょうとうてつりつ)を定め、調整を行なっていたのです。

このような中で、大覚寺党から即位した後醍醐天皇は、院政を廃して天皇による政治を進めはじめました。 

当時の幕府は執権・北条高時のもと内管領(うちかんれい)の長崎高資が政治をほしいままにしていたので、政治に対する反発が高まってきました。

この動きを止めるために、後醍醐天皇は幕府を倒す計画を考えたのですが失敗に終わっています(正中の変:1324)

その後も、討幕をくわだて挙兵したのですが失敗し、ついに後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいました。

しかし後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし)は、楠木正成や畿内の新興武士と結集して、幕府と戦いました。

この時、播磨の土豪・赤松則村(円心)も護良親王の命を受け、 姫路の西に白旗城を築き兵を挙げたのです。

そして姫山に砦を築き、西国からの幕府側軍勢を抑えるために、この山陽の交通の要衝である姫路を拠点としました。

この時点では姫山の稱名寺(しょうみょう)を利用したともいわれています。

当初、幕府側だった足利尊氏も、このような状況をみて幕府に叛き、関東の新田義貞も鎌倉を攻め、ついに北条政権は滅亡するのです。
   
  
   
「小寺頼季が守っていた時代」

後醍醐天皇は京都に帰り、「建武の新政」を打ち立てたのですが、土地所有権の確認は天皇が行うことなど、天皇中心の政治となり、それまでの武士社会を無視していたので、不満と抵抗を引き起こしました。

建武二年(1335)、足利尊氏は北条高時の子・時行が反乱を起こしたのを機会に鎌倉を占領し、新政に反旗をひるがえし、持明院党の光明天皇を立て、新しく幕府を開く準備をしていました。

一方、後醍醐天皇は吉野に逃れて、正統の皇位であることを主張し、ここに吉野の南朝と京都の北朝が対立して、以後60年間全国的な動乱の時代になっていくのです。(南北朝時代)

鎌倉幕府が倒れた後も、播磨の赤松氏は足利尊氏に従い、正平元年(1346)には動乱の世に備えて、則村の二男・貞範が姫山に城郭を築きました。

その時点では稱名寺を山麓に移し、西の峰に城を築いたとされています。

正平四年(1349)、貞範は東の庄山城を築き、そこに移ると、姫路城は一族の小寺頼季(よりすえ)に守らせました。  
    
    
南朝は北畠親房らが中心となり東北・関東・九州に拠点を置き、北朝は足利尊氏が征夷大将軍として、弟の直義と政治を行っていました。

しかしこの足利兄弟の間でも対立しはじめ、観応元年(1350)、武力の争いとなり、各地でも争乱に突入していったのです。(観応の擾乱)

この擾乱が始まった頃に、播磨守護・赤松円心が亡くなり、その跡は則祐・義則・満祐と継いでいます。

赤松惣領家の赤松満祐は播磨守護職として、支配の中心を姫路書写山の麓の坂本城に置きました。

京で直義に敗れた尊氏は丹波路を経てこの坂本城に布陣したともいわれています。

長い間続いた南北朝の動乱も、尊氏の孫・義満の時代には、南朝の後亀山天皇が京都に帰ることでようやくおさまり、全国的に政権が統一してきたことで室町幕府は確立されてきました。

将軍を補佐する管領(かんれい)には、足利一門の有力守護、細川氏・斯波氏・畠山氏がなり、京都警備などの侍所の長官には四職(ししき)と呼ばれる赤松氏・一色氏・山名氏・京極氏が任命されました。

当時は守護は京に在住し幕府の運営にあたり、各自の領国には守護代に任せていました。

また義満は、あまりにも大きくなりすぎた守護の勢力を削減する企てを行いました。

例えば、美濃・尾張・伊勢の土岐氏(土岐康行の乱)、日本全国66カ国の内11カ国を所領していた但馬・此隅山城を本拠とする山名氏(明徳の乱)、大内義弘の討伐(応永の乱)のことです。  
    
    
「山名氏が所有した時代」

足利義満のあとは比較的安定していたのですが、六代将軍・義教は幕府内の将軍の権力強化を図り、従わないものは力で抑えました。 

そして、赤松一族が起こした大事件が起こるのです。 将軍足利義教に自領の一部を侵されとして、赤松満祐はこれを恨み、義教を自邸に招いて殺害してしました。(嘉吉の乱)

播磨に帰った満祐は、足利冬氏(尊氏の子・直冬の孫)を迎え、義尊と称して将軍に擁立しようとしたのですが、幕府の追討軍が攻め寄せ、赤松軍は各地で次々に敗れ、姫路の坂本城まで帰ってきました。

しかし幕府の追討軍として但馬から山名持豊(宗全)勢が坂本城に押し寄せ、坂本城は落城し、満祐は城山城(きのやま)に退いて籠城したのですが、大軍に囲まれてついに自刃し、赤松氏は滅びてしまうのです。

落城の時、満祐は赤松家の再興を子・教康に託し伊勢の国に落としています。

この時、播磨国・姫路城も一旦は山名氏が領しているのです。  
    
   
「黒田官兵衛が登場した時代」

嘉吉の乱後、将軍の権力は弱体化し、約1世紀におよぶ戦国時代の口火となる「応仁の乱」へと時代は入っていくのです。 

幕府内では管領・畠山氏と斯波氏の家督相続をめぐる争い、八代将軍義政の弟・義視と義政の妻・日野富子が押す義尚との将軍家の家督争いが起こりました。

また有力守護の細川勝元と山名持豊(宗全)が対立し、応仁元年(1467)ついに乱がはじまりました。

この戦いでは、守護代や有力国人が力を伸ばし、下のものが上のものを力でしのいでいく、いわゆる「下剋上」の世となりました。

いったん滅びた赤松氏は、赤松政則が復活し「応仁の乱」で山名氏と対抗する細川氏側について播磨奪回を果たしたのです。

そして政則は置塩城に入り、姫路城には再び一族の小寺豊職(とよもと)を置きました。

豊職の子・政隆は御着城を本城にして、姫路城は支城として、政隆・則職(のりもと)と継ぎ、 天文一四年(1547)、小寺則職は重臣の黒田重隆の器量を見抜き姫路城を与え、その長男・職隆(もとたか)を姫路城留守居役としました。

そして永録十年(1567)、職隆は家督を長男の孝高(よしたか)に譲ります。 この孝高こそがのち秀吉の参謀で、九州は福岡城にまで昇りつめた黒田官兵衛(如水)なのです。  
    
    
「羽柴秀吉が三層の城にした時代」

応仁の乱にはじまった戦国の世、各地域では戦国大名とよばれる実力者が統治しはじめました。

北条早雲、上杉謙信、武田信玄、毛利元就といた人物です。

そして大名の中でも、尾張の織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を打ち破り、破竹の勢いで全国統一に乗り出しました。

天正五年(1577)から始まった信長の家臣・羽柴秀吉の「播磨攻め」では、官兵衛は秀吉に付いたのですが、主家の御着城主・小寺氏は織田氏に叛いたため滅び、三木城・英賀城など播磨のほとんどの城は攻め落とされてしまうのです。

天正八年(1580)、官兵衛は秀吉に姫路城を献上しました。

秀吉はただちに築城に取りかかり、一年ばかりの大工事で姫山を中心に石垣を造り、多くの郭や櫓を設け、現在の天守閣のあたりには三層の天守を築き西国攻略の拠点としました。

翌年、秀吉は大坂を築き、姫路城には弟・秀長が入り、その後は秀吉のおねの兄である木下家定が城主になっています。
    
    
「池田氏・本多氏が現在の城に完成させた時代」

秀吉は山名氏の但馬、鳥取城も落とし、中国攻めにかかりました。

しかし天正十年、岡山の高松城の水攻めの途中、明智光秀が本能寺で信長を討った知らせがはいり、急ぎ京へと帰り、山崎で光秀を討ちました。
 
その後、四国・九州平定そして朝鮮出兵にまで手を出してしまい、そこから豊臣政権が衰退していくのです。

秀吉の死後、五奉行の石田三成と徳川家康が対立し、西軍は三成と毛利氏など、東軍は家康と福島正則や加藤清正などが関ヶ原で戦いました。

この戦いで東軍が勝利を収め、ついに徳川の時代になるのです。

関ヶ原の戦いののち姫路城は、徳川家康の二女督姫の婿・池田輝政が入り、八年の歳月をかけた大工事をして現在の姫路城に近い姿となりました。

池田氏が鳥取へ移った後は、伊勢から本多忠政・忠刻が入りました。

大阪夏の陣のあと再婚した千姫と忠刻のために西の丸を造営して現在の姫路城のすべてが完成したのです。 
    
    

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