五ケ所城

三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦

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鳥羽から国道167号線を南へ、志摩市から16号線を西へ走ります。

五ケ所湾へ流れ込む五ケ所川の西岸沿いを北へ上る、川の東側には「愛州の里」、その東側の山頂には、五ケ所城(ごかしょ)がありました。
   
    
「愛州の里」に車を置いて「五ケ所愛州関係案内図」を眺める。

裏山がお城、長い階段を上ることにする。

公園、ここが山頂と思うけど、そこから北へ入るんだ。
 
   
 本丸への入口には左右に二重の堀、竹林だけど跡がしっかり残っている。

一段上がると30m四方の本丸、中央に大きな石碑。

愛州氏、伊勢に来てから初めて知った。

ここから南に下る、そこには愛州氏館がある、行ってみるね。
  

  
660余年の昔、南北朝時代といわれる時代がしばらくつづきました。 五ヵ所城は、南朝の忠臣愛洲公一族の城で、愛洲城ともいわれ、土地の者は愛洲さんと呼んで、大切にしてきました。

愛洲氏は、古くからここに城をかまえ、南北朝の頃には、国司・北畠氏と共に、伊勢地方に勢力を張り、熊野水軍と結んで、田丸や一之瀬に進出、大いに活躍しました。 功により、伊勢の守護職となり所領を受けて、神宮のうしろだてとなりました。

一族は長くこの地を本拠地として、威を振るいましたが、天正4年(1576)、北畠氏(織田信雄)の軍に攻められて滅亡します。

現在、城跡と丘の南面の、居館跡や塔頭(墓所)が残り、中世の山城をしのぶ遺構として貴重なもので、昭和十三年県史跡の指定をうけました。

愛洲移香斎久忠(1452-1528)は、530余年前、この地に生まれ、成人として九州鵜戸の岩屋にこもり、剣の奥義をさとって、愛洲影流をひらき、天下に広めました。

日向守愛洲太郎左衛門久忠と名乗り、移香斎と号として所領をうけました。

愛洲影流は、上泉伊勢守信綱により、新陰流となり、柳生石舟斎の柳生新陰流をはじめ二百余流の源流となり、移香斎は剣祖としてあおがれています。

『現地案内を参照』

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