桑名城

三重県桑名市吉之丸

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三重は桑名へ行くにはどの道がいいかな。

今回は名古屋からJR関西本線、桑名駅から東に歩く。 1kmぐらいで公園、ここが桑名城城(くわな)です。
   
   
今では九華公園、お花見でいっぱいだよ。

お城の石垣は港を造るのに使われたらしい。

明治元年、京都所司代・松平定敬は会津若松城主・松平容保の弟にあたり、戊辰の役では官軍に背いて函館へ行きました。

そのため、桑名城は官軍の攻撃を受け全ては破壊されたと云われています。
 
  
「本多忠勝」

かっこいい姿だよ、月の明りで見てみたいな。

元和元年、大坂夏の陣がおこった。 秀頼に嫁いだ千姫は、焼け落ちる大阪城から援け出された。

そして本多忠勝の孫・忠刻に嫁いで姫路城に入るんだね。

また姫路城で、千姫を見てみよう。 何回見ても、何の遊びをしているのかに気をとられてしまうね。
   

   
戦国時代、この付近には伊勢氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。 戦国末期、桑名地方は信長に平定され、信長の家臣・滝川一益の支配を受けました。

秀吉の時代には、一柳右近うや氏家行広が治めていました。

桑名城に初めて天守閣が築かれたのは、文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したと云われています。

桑名に本格的な城郭が築かれたのは、慶長6年(1601)で、家康が関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しています。

忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造り、同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。 忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。

桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができ、天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。

門や櫓の数は多く、享和3年(1803)の記録には、本門や路地門などを併せて六十三カ所、櫓は九十五ケ所とあります。

しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬(さだあき)は東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏します。

その間に、国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。 新政府軍は、天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。

その後、桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされるのです。

『現地案内を参照』

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