上田城

長野県上田市二の丸

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ようやく来ました。

長野は松本城など、沢山見たいお城があります。

ここで真田勢が守り、徳川勢が攻め寄せた。

今では千曲川が流れる街は静か、東京から走り去って行く新幹線が見えている。

 
本丸東虎口には3つの櫓が残っています。

明治8年に民間に払い下げられ、上田城の北方、太郎山山麓の上田遊郭に移築されたそうです。

市民により、2棟の櫓は買い戻され、今では南櫓と北櫓として上田城のシンボルとなりました。

 
田の赤備えの大兜

2度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に轟きます。

大阪夏の陣、武具を赤で統一した真田幸村、自ら信じる道を歩んだ真田一族の熱き魂が宿っていると云われているのです。


天正11年(1583)、真田昌幸によって築かれ、まもなく天下にその名を知らされるようになり、それは真田氏が2度にわたって徳川大軍の攻撃をうけ、みごとそれを撃退してしまったからです。

天正13年、昌幸が徳川家康の命に従わなかったため、その怒りに触れ、大久保忠世・鳥居元忠等率いる信濃・三河の勢は8千で城を攻め、迎え撃つ真田勢は2千人弱でしたが、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は大敗、死者を千三百人余もだし、対し、真田方の死者は40人ほどであったと云われています。

二度目の戦いは、慶長5年(1600)の関ケ原合戦に際し、豊臣方に属した昌幸・幸村父子は、城に立て籠もり、徳川秀忠率いる2万5千人の大軍の西上をはばんで、関ケ原の戦いに不参させたことで、一躍天下の名城といわれました。

上田城はいわば地方の小城であり、石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。 しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた全体がきわめて秀れた構造となっていたことが現在、学術的研究により明らかになってきています。

全国に数多い近世城郭のなかで、二度も実戦を経験し、このような輝かしい戦果をあげた城はほかに見ることができません。

上田城はその後、徳川軍の手で破却されましたが、真田氏にかわって上田城に入った仙谷氏により復興されました。(寛永3年1626)

この時、復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙谷氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はありませんでした。

廃藩置県後、明治7年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となりました。

『現地案内を参照』

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