鬼ノ城

総社市奥坂

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岡山自動車道、「岡山総社IC]で降り、国道180号線を西へ走ります。

「国分寺口交差点」を北へ曲がり、2kmほど行くと砂川公園があります。

この公園から更に細い山道を登ると、途中には経山城登山口、そして奥には標高403mの山頂に鬼ノ城(きの)があります。
   
   
「屏風折れの石垣」

その距離は2.8km、神籠石式山城(こうごいし)の鬼ノ城は、周囲に石垣や土塁を張り巡らされ、まさに古代要塞なのです。

古代山城、いつ・誰が・何の目的で築いたのか、その真実はわからない。 ただ夢から現実へと目覚める瞬間、届く光に映された不思議な城跡なのです。
 
  
「角楼跡(かくろう)」

前日までの予報は雨、しかし晴れ。

姫路から千種川を見たくて上郡経由で、ここ鬼ノ山城を目指しました。

岡山総社ICを降り、標識は「鬼ノ城は右」を無視して、車のナビに映し出される「鬼ノ城」へと走ったのですが、着いたのは「冠山城」、考えてもしかたないのでコンビニで弁当を買い、素直に標識に従いやっとたどり着きました。
 
  
秋の行楽シーズン、車は砂川公園を通り抜けると交通整理の方にストップをかけられました。 そこからは車では行けないそうです。 でも公園から2km以上はあるよ。

車は公園に置いて「鬼ノ山見学会」のバスに乗りました。 満員で補助席に座り、秋の景色を眺めていましたが、普通車でも緊張するぐらい道は細い。 運転は完璧、皆も無口で楽しんでます。

途中「経山城」登山口が見えました、しかしバスは一途に鬼ノ城へ直行、まもなく駐車場に着きました。

西周りで行きます。 まずは「角楼跡」そして「西門」です。 
  
  
道沿いの所々にこのような石の小さな部屋みたいな物があります。  何に使っていたのかな、古代の謎である。

山の周囲がコースになっていますが、真中辺りに道が通っています。 全部を見学するには、必ず同じ道を二度通るか、引き返すことになります。  
  
  
城には第0水門から第五水門があり、ここは第二水門です。

城全体はいくつかの峰と谷からなっているから、その谷にあたるところが水門になっています。

雨の水や排水の水が、城塞の中に溜らないようにここから外に出すのです。

少し黒くなった穴から水が吹き出してくるんだよ。 噴水みたいに。 
  
  
城塁は主に土塁ですが、門や主要施設などの要所では石塁になっています。

ずーと歩いているけど、まるで万華鏡を回した時のように、同じ部品がいろんな形に変えて、次から次へと情景が映しだされる感じです。
  
  
東・西・南・北に四つの門があり、ここは南門。 柱を地中に埋め込んで建てた堀立柱式の城門です。

城が廃城になった時、焼けて石段が赤くなっています。

「西門」は古代建物の門の復元工事中で、見学には予約が必要でした。 
  
  
南門から第三水門へ行く途中、吉備国の一望できるところでお弁当です。

お城でお弁当を食べたのは初めてかな。 いつもは店の駐車場でチンした弁当を食べています。

何か不思議、座っている城跡が現実で、遠くにかすむ山や街はスクリーンの映像みたいだよ。

そうだね、船から陸に上がる時、一瞬違う空間に移動した気がするのと同じで、座っている場所が、異なる空間同士の境目みたいな感じだよ。 
  
  
「第三水門」

まだ半周手前、いいんだろうか。 こんなに石垣を見ても。

いつもなら少しの石垣で感動。

この鬼ノ城の感動をどう書けばいいのだろう。 わからない、謎としか書けないよ。 
  
  
本当に何の目的で造られたのか、720年の「日本書紀」や797年の「続日本紀」の古代の史書には一切記録のない謎の古代なのです。

写真は200枚ぐらい撮ったよ、いつもは50枚。 撮るのも大変なぐらい、撮るべき場所があるよ。 「名前を変えて保存」で手が釣りそうになった。  
  
  
城のほぼ中央には、2ないし3つのまとまりで建物群が発見されています。

米などの食料貯蔵庫と推定され、現在7棟が確認されています。

ほんの道沿いを入ったところです。 ひょっとしてこの山、得意の草木を掻き分け藪に入ると、今まで見たこともない情景に出くわすような。

でもそれを見た瞬間ふっと姿を消して、いつのまにか元の道に戻っているような。
  
  
 「温羅氏の石碑」

千数百年前、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮から渡来し居住したといわれています。

中世の「鬼ノ城縁起」には、百済の王子がやってきて「吉備冠者」と呼ばれ新山に城を構えました。 しかし、彼は恐れられていたので「鬼ノ城」と呼ばれるようになりました。

そこで、都から派遣されたイサセリヒコノミコトと戦いました。

お互いに放った矢は空中で噛み合い海中に落ちたのが、岡山市田中に祀られている「矢喰宮の矢(やぐうのみや)」です。
  
 
  
ミコトが二矢を同時に放ったところ、一つが温羅の左眼に当たり、流れる血潮が流水となったのが、今も総社に流れる「血吸川(ちすい)」なのです

温羅は雉となって山中に隠れ、ミコトは鷹となってこれを追いかけました。  また、温羅は鯉となって血吸川に潜ると、ミコトは鵜となって噛み揚げるのです。

今、倉敷にある「鯉喰宮(こいくう)」の由縁なのです。

温羅はついにミコトの軍門に降り、「吉備冠者」の名をミコトに献上し、ミコトは「大吉備津彦」となりました。  
  
  
古代史書には一切記録のない古代山城。 そして多くの謎は今なお解明されてはいない。

でも古代の謎が解けた瞬間、一筋の光は闇に消え、夢から目覚めてスーツ姿にネクタイで汗かきながら社会の戦場に向かって歩く現代。

これもまた謎なんだよね。 
   

  
鬼ノ城は、およそ千三百年ほど前に築かれた壮大で堅固な古代山城跡です。

吉備高原の南端に位置しており、眼下の平野には官衛(役所)、寺院などが建ち並び、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内への海上交通も至便であるなど、政治、経済、軍事、交通上の要衝の背後地にあたります。

城跡は、急峻な斜面と平坦な頂部をもち、遠く四国までも望見できる眺望絶佳な鬼城山(標高400m)を最高所とし、八合目から九合目にかけて城壁が鉢巻きを締めたように約2.8kmにわたって巡っています。

城壁は、平均幅約7m、高さは約6mと推定されていますが、大部分が土壁のため流失しており、高く積まれた石垣のみが残っています。

城壁は、谷部では排水のために強固な水門を五ヵ所に築いており、また四ヵ所に城門を設けています。 このうち三ヶ所の城門(東・西・南門)が発掘調査され、構造と規模の概要が判明し、また角楼という特殊な遺構もみつかりました。

城内は、およそ30haという広大なもので、これまでに五棟の礎石総柱建物跡、溜井(水汲場)、狼煙場、土取り場も見つかっており、今後の調査でさらに新たな発見が期待されます。

鬼ノ城の築城目的や時期については、諸説がありますが、百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(西暦663年)において大敗し、唐・新羅連合軍の日本侵攻をおそれ、急拠西日本に築城したものの一つとの考えが有力視されています。

『現地案内を参照』

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