大坂城

大阪府大阪市中央区大坂城

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阪神高速で大阪へ、いざ大坂城(おおさか)を目指しビルの谷間をぐるぐる回と、しかし一度道を間違ると、そう簡単には元には戻れないのが大阪、こんなことが2度3度。

大阪城公園を通り抜け、目にしたものは「でっかい」の一言です。 そして人が多くて、天守入口では行列ができていました。
   
   
その姿は雄大で美しい、訪れる人は年間百三十万人を超えます。 秀吉そして徳川氏によって築城されたお城だよ。

秀吉のイメージがあるけど、江戸時代は徳川氏のもの、でもやっぱり大坂城は秀吉でいいと思うよね。
 
  
「天守閣は三代目」

最初は豊臣秀吉、大坂冬の陣で堀が埋められ、翌年の夏の陣で本丸が焼失しました。

次は徳川秀忠が松平忠明に命じて、築城の名手藤堂高虎を中心に工事が行われ築城されました。

しかし度重なる落雷で焼失したり、明治元年の戊辰戦争でも大坂城は炎上するのです。

そして現在、昭和六年に大坂夏の陣図屏風に描かれていた外観を参考に、可能な限り秀吉時代の天守を再建したのです。
   
   
高さは最高クラスです。

石垣や水堀は徳川時代のもので、秀吉時代の大坂城は地下に埋もれているらしいよ。

とにかく石の多さと大きさには、圧倒される、大阪はすごい。  
   

    
明応五年(1496)本願寺八世蓮如上人が、この石山に隠居所の別院を建立したのが始まりで、その後十世証如上人の時に石山本願寺と呼ばれる堅固な要害になりました。

元亀元年(1570)石山戦争で、信長と本願寺との間で争いが11年も続きました。

正親町天皇の仲介により、十一世顕如と信長は和議を結んで、本願寺は紀伊に移りました。 しかし信長が本能寺で倒れたため、豊臣秀吉がこの地に城郭を築きました。

慶長三年(1598)に秀吉が没すると、豊臣政権はたちまち内部分裂を起こし始めました。

大坂城主の地位を継ぐ秀頼は、幼少であったため、天下人としての実力はなく、関ヶ原の合戦では徳川家康の大勝で終わり、その後、この大坂は急速に衰えはじめました。

大坂冬・夏の陣で完全に豊臣家は滅亡し、徳川氏の時代になりました。 そして豊臣大坂城の本丸を埋めて、その上に徳川大坂城を造ったのです。

しかし信長、秀吉の熱い思いが残っていたのでしょうか、寛文五年(1665)天守鯱鉾(しゃちほこ)に落雷し、焼失してしまうのです。

『参考文献を参照』

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