服部陣屋

滋賀県守山市服部町

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JR守山駅から北西の11号線を琵琶湖に向かって走ります。

途中から琵琶湖大橋へと続く国道11号線の「洲本町交差点」から477号線を北へ、野洲川を渡る手前で東の153号線へと曲がり、稲荷大橋を渡り、東の集落の入ると服部陣屋(はっとり)がありました。
  
   
南の立花城からやってきた。 町中に入ろうと思っても道が狭そう。

歩いてきたのは南産土神社、向かいには集会所がある。 江戸時代、旗本上田重秀の采地陣屋が築かれたんだ。
 
  
上田氏と聞いて、信州の上田氏を思い出すね。

実は関係があるみたい、上田重秀の父・宗箇から十代の祖が武田盛義で信州上田に住んでたんだ。

また野洲川を南に渡り、幸津川城へ行くよ、橋のたもとの歴史公園はなんだったのかなぁ。
   

    
応仁の乱で、京極高清は東軍の細川氏に、六角高頼は西軍の山名氏に属し、湖東を中心に長光寺城、簗瀬城、押立城、高野瀬城、守山城、清水城などで戦いが始まるのです。

応仁元年(1467)、幕府から守護職を奪われた六角高頼の本城・観音寺城を、新たに守護職に任じられた高頼の従兄・政堯を助けた京極持清が攻撃したことに端を発し、ついで高野瀬城も落とされました。

翌年、京極方は観音寺城・守山城を攻め落とし、政堯、持清が湖東を支配をします。

文明二年(1470)、京極持清が世を去ると、六角高頼にも運が開けていくのです。

持清の後、守護職は孫・童子丸に譲られましたが、持清の遺志や多賀氏の同族の争いが起こり、幕府も童子丸では不安を感じて、再び六角政堯に任じるのです。

しかし六角高頼が清水城に政堯を攻め落とし、京極氏・多賀の反乱分子や美濃の斉藤妙椿と組んで、多賀高忠を攻め、湖東の支配権を手中に収めるのです。

『城郭総合辞典 滋賀の城郭』より

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