島根県安来市広瀬町富田 | |
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米子ICから国道9号線、山陰道の安芸ICから45号線を南へ、広瀬町に入ると飯梨川の東、新宮の地には新宮党館(しんぐうとう)がありました。 2006年11月、秋の旅。 島根県は出雲の国、尼子氏のお城、もう目の前なんだよ。 |
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月山富田城の北側、里御殿と云われる城安寺、その道を奥へ進む。 途中、北側の道を選ぶ、嘉永六年(1853)に三百年遠忌に建てられた石碑がある。 尼子家の精鋭家臣団、新宮党。 でも尼子家滅亡のきっかけになったと云われているよ。 |
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「大夫神社」 山中鹿之介の屋敷跡、堀尾忠氏の墓所と案内がある。 一段高く神社が見える、かけ上がる。 そこには広い平らな所、辺りに沢山の館があったと聞く、新宮党館の主屋や地下倉庫があったらしい。 |
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「毛利元秋のお墓」 元亀元年(1570)、元就の五男・元秋は月山富田城の城主になる。 元就の子、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景、そして備中猿掛城の穂井田元清、その次の子だね。 出雲の旅、目の前には月山、いよいよだよ。 |
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尼子経久の次男・国久とその子誠久、敬久らが三千余騎の手勢を持ち、尼子軍の中心的家臣団として活躍したのが新宮党です。 しかし合戦で立てた武功を誇り、高慢な振る舞いが多く、経久の孫・晴久や他の諸将の反感をかっていました。 これを知った毛利元就は、新宮党が毛利氏と通じて謀叛を起こそうとしている、という風評を富田城内に流します。 天文二十三年(1554)、これを聞いた晴久は新宮党を壊滅させるため、国久が登城の途中で本田豊前守・平野又右衛門に待ち伏せさせ、誠久は城下で大西十兵衛・立原備前守に討たせました。 誠久の弟・敬久は途中から館に引き返し、立て籠もり戦うのですが敗れ、誠久の子・常久、吉久らと共に館に火をつけ自害し果てます。 この時、誠久の末子で当時二歳の助四郎だけは難を逃れます。 尼子氏滅亡の後、再興のために出雲に進出し、最後は播磨上月城で戦い敗れ自害、彼こそ尼子勝久なのです。 『参考文献を参照』 |
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