山梨県甲州市塩山下於曽 | |
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JR中央本線「塩山駅」、411号線を南へすぐ、山梨県民信用組合の南東には於曽公園、ここが於曽屋敷(おぞやしき)となります。 2008年11月、はじめての山梨だよ。 信玄のお城も近い、どきどきの屋敷だね。 |
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屋敷を探していると塩山駅に着いてしまう。 歩いても近そう、駅に車を置いて、南の降り坂を探す。 411号線、メイン通りなのかな、東側沿いには県民信用組合。 南にある公園が屋敷、駐車場もあるよ。 |
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東半分は花や木がある公園、西半分は屋敷かな。 周囲を二重に巡らした土塁、東西96m、南北120mで広いんだ。 織田氏が攻めてきた時、身代わりになって切腹した「板垣権兵衛の切腹石」もある。 ドキドキしてしまう、そんな屋敷跡だよ。 |
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塩山市下於曽元旗板に所在し、四囲は土手を二重に巡らせ、門は南・西に開いています。 現在、東西96m、南北約120m、山梨県内の中世豪族屋敷として唯一完備したものです。 土塁基底幅は10.6m、高さ3mの豪壮な土塁を囲続し、小字名「はたいた」とあることから、土塁上に更に板塀を巡らせた防御設備があったと考えられています。 「於曽」の起こりは平安中期の「和名抄」に記載がみえ、この地の開拓者は旧豪族の三枝一族です。 その後、甲斐源氏加賀美遠光の四男・五男がこの地を支配し於曽氏を称します。 この於曽屋敷は加賀美遠光の四男光経、更にその子・遠経の屋敷と伝えられ、鎌倉初期の創設で、後に於曽氏数代の居館となり、信玄の時代には同族である板垣氏が於曽を継承し、於曽殿として活躍しました。 またこの屋敷の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、また金製法の作業場があったことから、当屋敷はそれら金山関係者の役宅とも考えられています。 更に今日、於曽屋敷内から採集される土師質土器から考察しても、当屋敷が鎌倉時代から室町時代にかけて経営されたと考えられ、文献資料と一致します。 昭和六十年、山梨県埋蔵文化財センターが外土塁内作業場を調査したところ、門の位置が現在より東に12m寄り、その前に土橋・柵列があったことが確認されました。 『現地案内を参照』 |
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