山中鹿之介の碑
(月山富田城)

島根県安来市広瀬町富田
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月山富田城は山陰の覇者・尼子氏六代の本拠地です。

尼子氏の家臣・山中鹿之介幸盛は尼子十勇士や尼子三傑の1人で「山陰の麒麟児」とも呼ばれていました。

「太鼓壇」と呼ばれるところに山中鹿之介像が立っています。

天文14年(1545)に生まれ、一時は亀井家の養子となるのですが、兄が病弱なため、実家に帰り山中家を継ぎました。

三日月の前立(まえだち)、鹿の脇立(わけだち)、山中家の家宝の冑(かぶと)を譲り受けています。

「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈りました。

永禄5年(1562)、毛利元就の出雲攻めにより、冨田城は孤立し、籠城戦となりました。

鹿之介は毛利勢の豪勇・品川大膳と富田川中洲で一騎打ちを行い、大膳を破ります。

しかし籠城による武器食糧が無くなり、戦意も喪失し、永禄9年(1566)尼子義久は元就からの和睦を受け入れ、冨田城は落城し、尼子氏は滅亡するのです。

鹿之介は尼子勝久を大将に尼子家再興を誓います。

永禄12年(1569)、出雲地方をほぼ復帰させるも、毛利氏との布部山の戦いで勢力が衰え、織田信長を頼ります。

天正5年(1577)、秀吉の中国攻めでは先鋒を務めるのですが、播磨の上月城で毛利氏に敗れ、尼子勝久は自害、鹿之介は備中甲部川にて命を落とすのです。

『安木市観光ガイド&Wikipediaを参照』

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