生野義挙碑

兵庫県朝来市生野町口銀谷

 兵庫県の幕末史跡1
   
文久3年(1863)10月、生野義挙が起きたことを後世に伝えるため、生野代官所敷地の一部に建立しました。

生野義挙は、大和天誅組に呼応し、長州から七卿落ちの一人澤宣嘉(さわのぶよし)を総師に迎え、但馬の農民と勤皇の志士が一緒になり、生野代官所を占領します。

しかし、わずか三日で破陣、明治の世まで生き延びた者は数名に過ぎなかったのです。
  

天分11年(1542)、山名祐豊(すけとよ)は生野銀山経営の拠点として生野城を築城します。

のち、銀山の経営は太田垣、織田、豊臣と変わり、関ケ原の戦いを経て徳川氏に帰属、この城の本陣を代官所としました。

明治4年(1871)、生野県が豊岡県に統合されると同時に建物は除去され、城壁と外堀のみが残りましたが、大正末期「には全部が取り壊されるのです。

北側の山が生野城、いつまでも街を守っているようだね。

『現地案内を参照』