中嶋太郎兵衛・黒田與一郎の顕彰碑

兵庫県朝来市和田山町高田

 兵庫県の幕末史跡1
   
文久3年(1863)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派により、尊王攘夷派の公家7人つまり、三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉(さわ のぶよし)が長州へと落ち延びました。(七卿落ち)

同じ年、郷土の志士・中島太郎兵衛重孝と黒田與一郎重清兄弟は平野國臣らと謀り、澤宣嘉卿を奉じて生野で義旗を挙げ、生野代官所を襲います。

しかし失敗、生野から逃れた中島太郎兵衛、黒田興一郎は養父市能座の地で追い詰められました。
  

中島太郎兵衛は自刃、黒田興一郎は京都六角獄舎に送られ獄中で病死、今では兄弟の生まれた家の近くに碑が建立されているのです。

国道を通る度に気になっていた、戦国時代かなと、確かにここは垣屋氏の茶臼山城の麓、上れば一度で二度美味しいが、次に通った時までとっておくよ。

『生野義挙 志士最期の地現地案内、生野義挙史跡めぐり資料を参照』