大鳥圭介 誕生の地

兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸

 兵庫県の幕末史跡1
   
天保3年2月28日、大鳥圭介は赤穂郡細念村(上郡町岩木丙)にて村医者の家系に生まれました。

13歳より岡山県備前市の閑谷学校で儒学を学び、17歳で赤穂市の中島意庵のもとで医師修行をし、蘭学の目覚め、20歳で大阪の緒方洪庵の適塾、22歳で江戸の坪井塾にて蘭学・西洋医学・兵学を学びました。

25歳で江川担庵の江川塾に兵学の教授として招かれ、黒田清隆、大山巌らに教鞭をとり、また蘭英仏語を学び原書を翻訳し、写真術・活字・築城・砲術等の技術を実践して草分けとなりました。
  

33歳で幕臣に登用され、幕府陸軍を近代化し、伝習隊を結成し、歩兵奉行に進み、戊辰戦争では幕府軍を率い、北関東や会津で苦難の戦いを重ね、函館では榎本武揚、土方歳三らと共に官軍と戦うも、五稜郭で降伏します。

二年半の牢生活後、黒田清隆や西郷隆盛らの助命運動により赦免されました。

ここは誕生地、「いきいき交流ふるさと館」、下の像は上郡町役場に建ってるよ。
明治5年、新政府から開拓使御用掛に任命、欧米を視察し、8年には工部省に入り、技術官僚として官営工場を総括、工部大学校長を兼務し数多の技術者を育成しました。

明治44年6月15日、神奈川県国府津の別荘にて死去、享年79歳。

雅号を「如楓(じょふう)」とした多数の書と故郷に宛てた書簡が残されているのです。

『生誕地 現地案内を参照』