山田顕義終焉の地

兵庫県朝来市生野町口銀谷

兵庫県の幕末史跡1
  
山田顕義(あきよし)伯爵は、弘化元年(1844)長州藩士・山田兵衛の嫡子として山口県萩市に生まれました。

藩校明倫館で学び、松下村塾で吉田松陰や、博習堂で大村益次郎(西洋兵学)の教えを受けました。

明治政府で産業の育成を図る工部省では、伊藤博文・井上馨・山田顕義など長州出身者が特に生野鉱山に力を入れています。
  

岩倉具視欧米視察団に参加し、法律を勉強、初代司法大臣に就任し、伊藤・黒田・山縣・松方の4代の内閣で司法大臣を務めます。

明治25年(1892)、生野義挙でたおれた又従兄の南八郎(河上弥一)はじめ長州藩士の菩提を弔うため妙見山下に墓参り、帰途生野鉱山を視察中三番杭において不慮の事故で命を落とすのです。 享年四十八歳。

『現地案内を参照』