塩冶判官の悲劇

  
兵庫県の太平記史跡
 
暦応4年(1341)、尊氏の執事高師直が塩冶高貞の妻・早田夫人(顔世御前)への横恋慕がもとで、高貞は逆心があるとされ京都を追われるのです。

 
 1 七騎塚の碑
加古川市船頭 
塩冶高貞の妻・早田夫人が、本国の出雲へ落ちていく時、尊氏の軍勢に追われ、この地で追いつかれます。

高貞の弟の六郎他七人が、この場にふみ止まり、戦うのですが全員討たれるのです。

 2 七騎供養塔 
 加古川市加古川町本町 (称名寺)
七騎塚は船頭附近にありましたが、洪水等で流されてしまいます。

この碑は、山田佐右衛門が願主となり、加古川加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てました。

   
 3 妻の墓(圓通寺)
 姫路市豊富町豊富
高貞と妻は別々に出雲に逃れるも、この蔭山の宿で追いつかれ、草堂に火を放たれ、悲壮な最期を遂げました。
 
 4 塩冶神社
 島根県出雲市上塩冶町
出雲国守護として、「天長、地久、国土安泰」を念じ懸命に生きようとしました。

後醍醐天皇の親政を救け、京都還幸の先達を務め建武の中興を支えます。

京都を出奔し、最愛の妻を失い、自らも馬上で妻子の後を追った人間味豊な武将だったのです。

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