和田範長 終焉の地

兵庫県赤穂市坂越・高砂市時光寺町・姫路市別所町北宿
兵庫県の太平記史跡
 
後醍醐天皇と敵対した尊氏が九州から東上、次々と天皇方の武将を追い詰めていくのです。

兵庫県には和田一族終焉の地がありました。

   
「和田備後守範長公一族の墓」

相生港から赤穂方面(西)へ走ると坂越の街並みを楽しみながら、北側の茶臼山を上ります。

尊氏の東上に対抗して、熊山城で傷を負った高徳を妙見寺の僧に託した義父の和田範長は脇屋義助勢と合流するため坂越に着きました。

八十三騎で赤松円心と戦うのですが、追い詰められ阿弥陀が宿の辻堂で一族五名自害するのです。

 
昭和55年、この地で五基の五輪塔を発掘、これらは岡山の施主家のご芳志により奉納された新しい五輪塔です。

左から、和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代公のお墓です。

なるほど、皆んな「範」がつけられているね。

 
JR曽根駅の東側の大日寺、この五輪塔は児島(和田)範長の墓と伝わっているよ。 

尊氏との戦いに敗れ、最後に主従六騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したといわれています。

赤松方の宇野重氏は大日寺で葬礼し、遺骨を郷里へ送り届けたそうです。 

 
「六騎塚」

JRひめじ別所駅から北の旧街道を東へ、集落の中にあります。

ここも範長が最後の主従六騎となり、この辻堂で自害したとも云われいるよ。

児島高徳の父・範長主従六人の自害を弔って建立されてと伝えられています。

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