放生津城

富山県射水市中新湊
富山県の太平記史跡
  
北陸自動車道「小杉IC」から国道472号線を富山湾に向かって北へ走ります

国道8号線を越えて間もなく415号線へ、富山新港の西側には、放生津城(ほうじょうず)がありました。

  
元弘三年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際し、越中守護・名越時有(北条時有)が一族とともに放生津の城で最期を遂げました。

室町時代には、越中守護・畠山氏の重臣で、射水郡、婦負郡の守護代である神保氏の居城となります。

明応2年(1493)、室町幕府10代将軍・足利義材(よしき)(義尹・義植)が京都の政変を避けて越中に逃れました。

  
義材は放生津城主・神保長誠(ながのぶ)に支えられて、放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣・細川政元と対峙しました。

義材のもとへ、公家、大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れました。

かくして、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えました。

『現地案内を参照』

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