本保陣屋
福井県越前市本保町

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  北陸自動車道「武生IC」を西へ、国道8号線を北へ「横市交差点」から2号線を西へ走ります。

JR北陸本線を越え、新保交差点から28号線を北へ、吉野小学校の本保陣屋(ほんぽ)がありました。

 
  集落の道には、案内がある。

道が狭いから入れない、でも陣屋前には駐車場があるから入れるんだよね。

西にある、「元三慈恵大師」の堂の所に駐車、歩いても近くだよ。
 

 
徳川幕府は幕藩体制を維持するため、全国の重要な地に直轄の領地を設けて陣屋を置き、各藩の動静を監視するとともに領民を特別に保護して幕府の権威を示し、これらの地を天領と称しました。

本保陣屋はその一つであり、享保六年(1721)から慶応四年(1868)に至る約百五十年間、越前の幕府領支配の中心として存在していました。

東西南北それぞれ約四十間千六百余坪(約5千300平方m)の敷地に塀をめぐらし、長屋御門本陣御用場を始め、米倉付属建物など建坪延二百余坪の建造物が建ち並び現高山陣屋に匹敵する全国有数の陣屋であったと言われています。

陣屋の支配範囲は時代により変動があったが、文化年間には丹南地域を始め板井郡大野郡、遠くは白山山麓に及ぶ、百七十五ヶ村石高五万五千石余を支配し、この地域における政治経済文化の中心でした。

陣屋歴史の中で、特筆すべきは天保大飢饉当時の郡代・大井帯刀永昌の仁政である。 今を去る約百六十年前、全国を襲った大飢饉は数年に及び、特に越前は食するもの全く無く、餓死するものが続出し、その惨状は目を覆う有様でした。

時の郡代・大井帯刀は年貢を減免し、領米を放出するほか、金子を与える等、領民の救済に当たりました。

領民は、感謝感激して、「慈悲の郡代」として生き神様のごとくあがめまつりました。 現存する天保救荒碑は、その遺徳を後世に伝えるものです。

時は移り、慶応三年(1867)徳川幕府は大政を奉還し、本保陣屋はその幕を閉じました。

『現地案内を参照』

 

  
  「冠木門」

江戸時代の建物を復元したものです、うまく残しているよ。

小学生の頃から歴史への興味が持てるきっかけになるよね。