金ケ崎城
福井県敦賀市泉・金ケ崎

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  北陸自動車道「敦賀IC」から西方面、敦賀の街中へと進みます。

海岸沿いの道を北へ走れば「緑地公園」、北側に突き出た標高86mの山頂には金ケ崎城(かねがさき)がありました。

 
  新田義貞の頃、信長の頃、この地が歴史の地になったんだね。

南北朝時代の話も、久しぶりだね。
 

 
金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。

南北朝時代の延元元年(1336)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王を奉じて、当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い、翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士三百余名が亡くなったと伝えられています。

戦国時代の元亀元年(1570)四月には、信長が朝倉義景討伐の軍を起こして家康、秀吉等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入りました。

しかし近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告が入り、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り、急遽総退却、この時、金ヶ崎城に残り、殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられています。

またこの殿での危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(1586)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされています。

すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえます。

現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせます。 また、最高地(86m)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれます。

『現地案内を参照』

 

  
  金ケ崎緑地に駐車、目の前に金ケ崎、でも線路で直接は行けないよ。

道路になってる昔の橋を渡ると「天下取りへのターニング・ポイント 金ケ崎の退き口」の旗が並ぶ。

ここに駐車場があるんだ、「金崎宮」の石段途中「難関突破と恋の宮」とある。
  
  「古戦場の碑」

意味は分からないけど、幸福の階段を駆け上がる事が大切らしい。

絹掛神社の由来には、落城の時321名が自刃した人達を祀っている、とある。 是非読んでほしい。

神社裏から「花換の小道」へ。

桜が咲くころ、小枝を交換して幸福を願う祭りが行われるよ。
   

  
  「尊良親王御墓所見込地」

自刃の時、新田義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めた。

でも、仲間を見捨てることはできない、とことわるのです。
  
  山頂には月見御殿、本丸跡だね。

今日は曇り、天候がよければ、遠く越前海岸が見えるらしい。

帰りは天筒山城へ続く道を選ぶ。 途中で道は分かれ、天筒山か金崎宮だ。

がんばって天筒山へ掛け上る、しかし半分ぐらいで戻ってきた。

最近あきらめが早い、すぐに違う道を歩いているようだ。