関ケ原
岐阜県不破郡関ヶ原町

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  「決戦地の跡」

慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦。

東軍大将・徳川家康、西軍大将・石田三成。

何回も訪れたい陣跡、まさに「天下分け目の戦」だよね。
 

  
  「石田三成の陣跡」

ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘をします。

小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減、西軍の敗色農厚となるや、もはやこれまでと三成は北国街道沿いに敗退していくのです。
 
 

「島左近の陣跡」

三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる人物です。

前日の杭瀬川の戦いで中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。

黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたと云われています。

鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。

  

  
  「大谷吉隆(吉継)の陣跡」

親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきます。

松尾山に直し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。

九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったと云われています。
 
 

「小西行長の陣跡」

行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて参戦します。

午前八時ごろ、戦闘開始の烽火をあげ、味方に合図をすると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。

しかし、小早川らの裏切りの衝撃は、小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗退しはじめたのは、午後一時過ぎのことでした。

  

  
 

「宇喜多秀家の陣跡」

西軍副大将の秀家は、一万七千の兵を配して中山道をおさえました。

午前八時頃、東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登(てるすみ)の隊と激突となりました。

宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りと云われています。

秀家は敗走し、のち八丈島へ流され、八十三才まで生き延びています。

 
 

「島津義弘の陣跡」

戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道を押さえるため、ここ小池村に陣をかまえます。

西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せるため、義弘は最後の賭けに出たのです。

「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現在にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。

 

  
 

「本多忠勝の陣跡」

生駒・金森・古田・織田の諸隊が備える背後にある家康の本陣(桃配山)を背にして麾下の隊を指揮します。

福島・黒田隊など先陣が進撃し、金森・織田などの諸隊が前進すると忠勝も先陣井伊直政に負けじと梨木川北方で島津隊と奮戦しました。

戦後、伊勢桑名に転封されるのです。

 
  「松平忠吉・井伊直政の陣跡」

中山道の敵を目標とする福島・藤堂・京極隊、そして北国街道を黒田・竹中・細川などの隊、その中央にあたるこの地に家康の四男・松平忠吉とのちの彦根城主・井伊直政が約六千人の兵で構えます。

午前八時頃、軍監、本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁して前進し、宇喜多秀家の前面に出るのですが、先鋒は福島正則であるといわれ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し、開戦の火ぶたが切られました。
  

  
 

「福島正則の陣跡」

東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜田隊と対戦しています。

一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。

首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたと云われています。

 
  「田中吉政の陣跡」

田中隊は、ここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。

本体が二、三百米ほど引き下がる。 そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。

というように白兵戦が展開されたのです。

三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後の六日目のことでした。
  

  
  「脇坂安治の陣跡」

安治は、関ヶ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賎ケ岳七本槍の一人として名をあげた武将です。

東軍に通じていた安治にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。

しかも東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に、先頭をきって躍り込んでいくのです。
 
 

「徳川家康最後の陣跡」

戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1キロのこの地点に進出させます。

ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終わると、部下の取ってきた首を実験したのが、この地なのです。

 

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