亀居城
広島県大竹市小方

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山陽自動車道、「大竹IC」で降りるとそこには亀居城(かめい)があります。

城と旅シリーズ、2007年8月は 「山口への旅」の帰り、ここは広島だよ。

 
  山口県の岩国からJRで次の駅、大竹駅から歩いてきた。

バス道と思ったけど、一日2本ぐらい、ここは亀居公園だよ。

公園の坂道、へなへな状態で本丸だね。

お城が亀に似ているから亀居城なんだよ。
 

 


慶長五年(1600)、関ケ原の合戦に敗れた西軍の毛利輝元は、領国八ケ国の内、周防と長門の二ケ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将・福島正則が芸備二ヵ国を与えられて、そのあとに入りました。

広島に入った正則は、直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城。三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。

この時、小方の城将には甥・福島伯耆を配備し、慶長八年(1603)から築城をはじめました。 築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。

五年の歳月を経た慶長十三年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将・山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。

海に面したこの城の規模は、面積十町歩(992アール)、周囲十八町(1960m)におよび、山頂に本丸、これに二の丸、三の丸、有の丸、なしの丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸の八台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸、妙見丸があって、合計十一台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が堀りめぐらされていたと云われています。

なお、この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。

かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃政則に対する幕府の圧力は非常にきびしく、完成後間もない慶長十六年(1611)この城は取り壊される運命となりました。

『現地案内を参照』

 

  
  本丸、二の丸、三の丸、有の丸、なしの丸、松の丸とかあと5つもある。

本丸と横の詰の丸の間には井戸もあるらしい。

南の街の方へ降りる、お墓にはきれいな飾り物が供えているよ。

ここから北へ歩く、玖波駅(くば)まで、次はどこのお城かな。
 

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