郡山城
広島県安芸高田市吉田町吉田

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中国自動車道、「三次IC」から国道54号線を南へ走ります。

吉田町役場の「消防署前交差点」を西へ曲がると歴史民族資料館、その北側標高389m(比高100m)の山には、郡山城(こおりやま)があります。

2006年10月、今年も秋。 601城目は安芸国、しばらくは旅のお城を楽しむね。

 
  なぜか西へ向かうと口ずさむ

「雪解け 間近の 北の空に 向かい・・」

探索始めて4度目の秋、ここは初めての安芸。

くねくね中国自動車道、やっと着いた、毛利元就のお城だよ。

郭が130もあるらしい、山全体がお城、ほんとすごいよ。
 

 


郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)、毛利時頼が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全体を城塞化し、されに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城です。

郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がります。

遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁が見られます。

天文9年(1540)9月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻しましたが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させています。

その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばしました。

天正19年(1591)、輝元の広島城移城後は、廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められました。

郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺構であります。

『現地案内を参照』

 

  
  「三矢の訓(おしえ)」

麓の郷土資料館は「御里屋敷」と呼ばれた元就居館、そこから上るよ。

すぐに郡山城の石碑がある、その東側だね。

三人の子、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に矢を折らす話は有名。

イタリア語ではサンフレッチェ、BANDOがんばれ。
 
  「尼子陣所」

南を見る、多治比川を挟んで、左が青山、右が光井山、併せて青光井山、そのものだね。

天文十年(1541)、尼子晴久が三万の兵で元就と郡山合戦をした、晴久は尼子経久の孫だよ。

真ん中の山麓が「古戦場跡」、次の旅は出雲だよ、きっと。
 

  
  「毛利隆元の墓所」

長男・隆元は山口の大内氏の人質だった。

19歳で帰り、24歳で家督を相続するんだ。

出雲の尼子氏攻めの途中、安芸佐々部(高田郡高宮町)で急逝、41歳。

この隆元の子が毛利輝元、豊臣政権の五大老の一人だね。
 
  「釣井の壇」

もう山頂、ここは「御蔵屋敷」、上へは本丸。

本丸を中心に星みたいに、6本の尾根が延びてる。

左へ回ると井戸

山で井戸、久しぶり、やっぱりいいよね。

待っていてくれたのは、井戸かな。
 

  
  さらに回ると姫丸壇、元就が築城した時、「百万一心」と刻んだ礎石を埋めたらしい。

それを長州藩士・武田泰信が拓本にとったとも云われている。

「釜屋の壇」「厩の壇」と回る、「三の丸」「二の丸」と上る。

そして「本丸」

元就が居たんだ、岡山のお城でよく登場してた、ここから来ていたんだね。
 
 

「毛利元就墓所」

郡山城で生まれ郡山城で生涯を閉じた。

いつも思う、信長や元就、戦国時代を生き抜いた武将達。

テレビや小説で見たり読む、今でもどこか遠くで働いてる気がする。

近づいてみる、距離の遠さが、時間差に変わり、差がゼロになる現実がお墓なんだね。

 

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