伊丹有岡城
兵庫県伊丹市伊丹

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  名神高速道路、「尼崎IC」で降りて13号線を北上します。 4kmほど走るとJR伊丹駅が東側の少し入ったところに有ります。 その駅のすぐ前が伊丹有岡城(いたみありおか)になっています。

「播磨灘物語」第二十三節は「藤の花房」。

『難波の花も結局は夢のまた夢』荒木村重、 『藤よ、藤よ、花をつけよ 』と牢で占う黒田官兵衛、夏から秋への古城の鐘は夢の瞬間を奏でているのです。

 
  「本丸跡の花」

天正二年(1574)、伊丹氏を打ち落とした荒木村重は「有岡城」と名を変え、信長の配下に入りました。

中学生の頃、大河ドラマ「国取物語」で、村重の謀叛を確かめにきた官兵衛が牢に閉じ込められ、わずかな光が官兵衛の顔を照らす場面は今でも鮮明に残っています。

歴史好きにしてくれたお城、今やっと1ページに記録できました。
 

   
 
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことです。 はじめは居館として建てられましたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていきました。

伊丹氏の城は、天正二年(1574)、信長方の武将・荒木村重の攻撃によって落城、その後、村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築きました。

有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6km、東西800mに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置されています。

謀叛を起こした村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ケ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城するのです。

天正八年、池田之助が城主となるのですが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となりました。

明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたのですが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめています。

昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになりました。

『現地案内を参照』

 
   

主郭の石塁
  「主郭の石塁」

中には四角や丸い石があります。これは宝篋印塔や五輪塔の石も使っているのです。

発掘調査された時は、10個ほど前にころがりバラバラに積まれていたのですが、阪神淡路大地震で壊れ、その後きれいに積まれています。
 
村重と妻・たしの句碑
 
『霜かれに 残りて我は 八重むくら なにはのうらの そこのみくつに 』

霜枯れの冬に残る私は、幾重にも生い茂った雑草のようなもので、難波の水底の屑になってしまうのだなあ、と妻は詠む。

『思いきや あまのかり橋 ふみならし なにはの花の 夢ならむとは 』

果たして思ったであろうか。 これまで自分のやってきたことは、漁師が間に合わせの、仮橋を踏んで平らにするように、同じところを何回も往ったり来たりしていたようなもので、難波の花も結局は夢のまた夢であろうとは、と村重は詠む。
 

  
上島鬼貫(おにつら)の句碑
  「上島鬼貫(おにつら)の句碑」

『前に酒家ありて 菊のしたゝりを流し 後に松高うして 古城の昔を見す おにつ羅 月花を我物顔の枕かな 』

鬼貫は伊丹の有力な醸造家に生まれ、東の芭蕉、西には鬼貫といわれています。

このような歌碑が伊丹の街には67箇所も置かれているのです。
上田南嶺の古城庵跡
  「上田南嶺の古城庵跡」

上田南嶺は安政から昭和の画家です。

大正7年、伊丹の醸造元小西新右衛門(11代業茂)の招きにより、伊丹古城下に「古城庵」と名づけた居を永住の地と定め、多くの作品を当地に残しています。

伊丹の街は「伊丹郷街」「みやのまえ文化の郷」などたくさんの文化財があり、またすごく大切にしています。 本当に感心しました。
 

  
城跡で奏でるフランドルの鐘(カリヨン)
 
伊丹市はベルギー王国・ハッセルト市と姉妹都市,、この鐘は1990年にハッセルト市から寄贈されました。

毎日正午には大小43個の鐘が、国際都市そして歴史文化が薫る町として城跡で夢の音を奏でているのです。

四十代、最後の夢を感じる瞬間でもあり、また決断できる最後の年代なのかもしれません。

時代は違えど夢への想いは、きっと誰にでも訪れる瞬間、そんな夢が本当の夢になっただけなのかな。
 

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