浅瀬山城
兵庫県佐用郡佐用町下秋里

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  新幹線相生駅を過ぎてしばらく行くと、有年原交差点があります。 そこから373号線を北上し、途中に白旗城を過ぎたあたりで千種川の風景を楽しみながら、ゆっくりと走ります。

上月町に入ってまもなく、西側には「日本最大規模のすべり台」で遊べる「笹ケ丘公園」の方向に入ると、その背後には標高350m「大の山」の山頂に浅瀬山城(あさせやま)があります。

まだ見ぬ時代も「稲穂が輝くよき時代」であることを、流れる川に願いを託しているです。

 
  「もうすぐ本丸」

山麓のすべり台のところに何気なしに「展望台」の標識があります。

家族づれで「すべり台」で思いっきり遊んだ後で、まだ体力が残っているのを見せたくて、『ついでに展望台でも行こうか』と言わない方がいいよ。 ついではしんどいよ。
  

  
 

嘉吉の乱で赤松一族は一旦滅亡し、応仁・文明の乱の時に赤松政則が置塩城で赤松家を再興し、それに従軍した孝橋繁広の子・繁景も復活しているのです。

のち孝橋政頼の頃、赤松氏の守護代・浦上氏が勢力を拡大し、政頼の子・秀光の時代には細川高国と細川晴元の「天王寺合戦」で浦上浦上村宗を倒しています。

そして、秀光の子・秀時がこの浅瀬山城を築くのです。 その後、岡田通隆が居住し、天文年間(1573〜1572)には間島左馬助が城代として居城したといわれています。

天文五年(1577)、羽柴秀吉勢が毛利方の援軍を追って浅瀬山城からすぐ北にある上月城を攻めた時、浅瀬山城主・上月恒織は城を出て羽柴勢の側面を突き、激戦ののち毛利軍の撤退を容易にしたのですが、恒織以下が討死し落城、その後の浅瀬山城は廃城になりました。

『参考文献を参照』

 

   
登山道の石ころ
  「登山道の石ころ」

登山道は山頂に電波塔があるせいか、けっこう広い道です。 でも道には石がころがっているので、いつでも上から転がってきた石を避けれる体勢で歩いてくださいね。

それにしても、長い道のりです。
 
展望台の本丸跡
  「展望台の本丸跡」

周囲は高さ1.5mの石垣があるらしいよ。 緑でなにも見えなかった。
でも、周りの山はすばらしく、のんびり昼寝でもしたいね。

時々、鉄砲のような音がするんだけど、たぶん運動会かマラソン大会だよね。 昼寝は家ですることにしました。

少しあせっていたので「馬落とし」の空堀も見なかった。
 

  
周りの山
  東の方の山、下には佐用川が流れ、3kmほど北に行くとJR上月駅があります。

中古で買った車だけど「ナビ」が付いているので、とても役に立ちます。 時々車のキーがどこに行ったのか、わからなくなるのに、衛星で自分の位置がわかるのは、もう大変な時代やね。

ドラえもんの「どこでもドア」があったら、「どこに行ってみたい」と一度以上は考えたことがある。

そんな時代が来たら大変だよ。 「年内目標2000城」、そのうちドアをどこに置いてきたか忘れてしまうよ。
 
ビッグスライダー
 
「ビッグスライダー」

写真の左に少し見えているのが日本最大規模のすべり台。

試してみたかったけどね。 リュック背負った45歳の人が、一人で滑っている姿を見たら「機械調整中」と思って、皆さん遠ざかっていくのも困るしね。

ここにはキャンプ場、アスレチック施設、散策道などで楽しく遊べますよ。
 

  
稲穂と浅瀬山
  いつの間にか秋の風景になってしまいました。

2年前まで、お米を作っていました。 小さい頃、春には牛で耕して水を入れ、ヒル(関西ではヒルイという)に血を奪われながら田植えをして、秋はカマで一株づつ切って、一束づつ結んで、「ナル」と呼ばれる木に干し、乾いたら脱穀、その後は「モミスリ」してね。

1999年に米も貿易自由化になっているんだよ。 これから日本で作るお米は減ってくるよ。 なによりも作る人が減ってくるからね。
「ナビ」もすごいけど、「米」も大変な時代がくるよ。
 
佐用川の流れ
  30年前から比べると、家にはエアコンが付き、街にはどこでもコンビニがある。 バナナも安いし、テレビ、映画やゲームで娯楽も十分。

でも、誰でも感じていると思うけど「何かが足りない」、そんな気がする。 「ひょっとして、今の時代が頂点で子や孫の時代は、どうなっているのだろう」と思うからかな。

どんなにすごい機械ができたり、生活が便利になっていたとしても、この川の流れだけは、次の世代に見せてあげたいよね。

「あの時代は良かった」と言われないようにね。
 

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