枝吉城
兵庫県神戸市西区枝吉、枝吉公園

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  第二神明「玉津IC」を出て国道175号線を南へ走り、森友交差点を西へ入ってから400mほど行くと、道の南側に「吉田郷土館」があります。 このあたりが枝吉城跡(えだよし)になっています。

ここは南に山陽道、東に三木街道といった交通の要衝であったため、戦国の舞台となり、また畿内でも最も古い農耕が営まれた地でもあるのです。

 
  標高26mの城山には、本丸跡があり、今は枝吉公園となっています。

そこには「枝吉城跡」と「播磨吉田遺跡」の石碑があります。

ここへは、「吉田郷土館」の「玉津王塚古墳(模型)」があるところからと、南側にある「神本神社(こうのもと)」の境内裏から上がることができます。
 

 
戦国争乱の時代が幕をあける十五世紀中ごろ、明石氏によって築城されました。 明石氏は、古代明石郡の大領を先祖とするという言いつたえがあります。

城を台地上にかまえ、その東縁には城主の居館を中心に城下町が形成され、一時は地域の中心として賑わいました。

その後、枝吉城は二度の合戦を経て、城下町もそのたびに戦火にあいましたが、十六世紀末にはキリシタン大名の高山右近重友が最後の城主となり、一世紀半にわたる枝吉城の歴史は終わるのです。

枝吉城が築かれていた台地は城山とよばれ、六万三千余平方mの範囲には田畑や雑木林、溜池があり、この台地上には、稲作開始期にあたる弥生前期の村落跡もあったが、枝吉城築城の際に壊されてしまいます。

弥生前期の村落跡「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が城山台地上に建立され、この地の歴史の1ページを記念しています。

『現地案内を参照』

 

  
  「吉田郷土館」の「玉津王塚古墳(模型)」です。

この台地には、稲作開始期にあたる弥生前期の村集落跡もありましたが、枝吉城を築く時に、ほとんど壊されてしまいました。
 

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