長谷高山城
兵庫県佐用郡佐用町横坂

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中国自動車道「佐用IC]から国道373号線から中国自動車道のすぐ南側の道を東へ入り、20mぐらいで高速道路の下のトンネルをくぐると、動物が降りてこないようにした鉄格子の扉があります。

その扉を開けて中に入ると「ふれあいの里」の案内が見え、その標高390mの山には長谷高山城(はせこうやま)があります。

前から来たかった赤松氏の発祥の地、今年の秋はどこを探せばいいのかな。

 
石積み
  高山城は則景、将則、光広の三代で絶えました。

赤松円心が挙兵した苔縄城以来、靴には木が刺ったままです。
登山口で杖を借りて、足元に気をつけて登りました。
 

 
平安時代、第52代・嵯峨天皇が皇子・皇女に「源姓」を与えたのが源氏の始まりです。 「嵯峨源氏」「清和源氏」「宇多源氏」「醍醐源氏」など数多くみられます。

延長四年(926)、父・醍醐天皇と母・藤原穏子(おんし:関白藤原基経の娘)との間に生まれ、兄の朱雀天皇の譲位を受けて、21歳で即位したのが第62代・村上天皇です。 この村上天皇にも「村上源氏」がみられます。

そして村上天皇の第七皇子である具平親王の長子・師房も「源氏」の姓を賜りました。

嘉承二年(1107)、師房から九代の孫・師季は、源義親が出雲で反乱を起した時に、この乱に加ったのですが、平正盛によって討伐され、播磨佐用庄に配流されました。 師季はのち許しを得て都に帰るのですが、その子・季房がこの地にとどまり、名前も山田季則と改めました。

この山田季則は子たちを各地に配置したのが、長子・頼範の佐用宇野氏、次子正頼は夢前郡三枝氏、三男頼清は三木郡別所氏になっていくのです。

建久二年(1191)、 この頼範の第三子・則景は鎌倉に出て源頼朝の幕下で活躍し、頼朝から佐用荘地頭職を受け、播磨守となり佐用の横板に長谷高山城を築きました。

則景の子に景能(間島氏)、頼景(得平氏)、有景(櫛田氏)、そして末子家範がいました。 この家範が佐用から最も遠い千種川下流赤松村に配置され、赤松姓を名乗るのです。

その四代目が、赤松円心なのです。

『参考文献を参照』

 

  
見張台へ
  「見張台へ」

登りはじめ標高150mのところに見張台があります。 その手前の空堀です。

以前、このお城を訪ねたのですが、高速道路下のトンネルの鉄格子が閉じていたので、「今日は休みなんだ」と思って帰りました。

苔縄城で思い出しました。 あの鉄格子は山から動物が降りてこないようにしているんだと。
 
鐘搗堂(かねつきどう)
 

「鐘搗堂(かねつきどう)」

奈良時代、僧・行基が諸国修行の途中、この地に来て草庵を営みました。 それが長谷寺の始まりで、最盛期には七堂伽藍が建ち並び、その参道の入り口として、ここに鐘搗堂がありました。

戦前までは、子供らの雨乞いの場にもなっていました。

下には中国自動車道、実際は姫路から179号線で来ました。 途中、「三日月陣屋」や最近国の有形文化財に登録された「千本陣屋」があります。

 

  
頂上目指して
  「頂上目指して」

いつの間にやら秋だよね。

ここは「尼ケ城」ともいわれ、天正五年(1577)に尼子勝久が拠ったことがあるらしいよ。

尼子氏か、出雲の国にも行きたいよね。 地道で行けるのは岡山の津山までぐらいだよ。 遠いなー、出雲は。
 
曲輪跡あたり
  「曲輪跡あたり」

この辺りが「千畳敷」と呼ばれるとこなのかな、違うかな。

かなり広い平坦部が沢山あるよ。 落ち葉を確かめながらゆっくりと探索です。 こんなに広くて歩きやすいのに、緊張するよ。

誰もいないよね、いたらそれもびっくりだよね。
 

  
石垣
  おっ、こんなところに石垣、ほんの少しだけどあるよ。

うれしくてもっと探そうと小走りになった時、枯れ葉で滑った。 杖は真っ二つに折れ、一つは地面に刺さったまま。
 
奥へ
  「奥へ」

東側の山にも何かありそうなので、短くなった2本の杖を持って歩きました。

やっぱり秋はいいよね。
   

  
見晴らしの丘
  「見晴らしの丘」

高台からの風景です。

地図でよく見ると、このすぐ北には平福の利神城があるんだね。 まだ登っていないから行きたいよ。
 
今年もしみじみ
  「もみじ」

ずーっと探していたんだよ。 今年はなかなか紅葉にならないよね。
でも、紅葉が過ぎたらクリスマスか。

神戸のルミナリエもきれいだけど、もみじもきれいだよ。
もうすぐ12月、今年もしみじみ早かった。
 

  
「た」

2本の杖で拾い集めた栗。 ごめんね、折ってしまって。

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