端谷城
兵庫県神戸市西区櫨谷(はせたに)町寺谷

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  JR明石と西明石間の国道175号線を北上します。第二神明の玉津インターを過ぎてどんどん北上し、神出町田井交差点を東へ、県道65号で神戸市立農業公園を過ぎ、福谷東で52号線に乗り換えて約2km道なりに行くと、明石川の支流櫨谷川をはさんで左側に端谷城跡があります。

城主は、赤松一族の衣笠氏で鎌倉時代の中ごろから羽柴秀吉に攻められ落城するまでこの地方を治めていました。

 
  満福寺の入り口に「端谷城跡」の石碑があります。

ここは衣笠城や寺谷城とも呼ばれ、赤松一族の衣笠氏が築きました。
 

 
端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。 室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1467〜77)などで活躍し、この功により衣笠の姓を得たと云えられています。

その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力争いを続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ケ市城、城ケ谷砦など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。

戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力をのばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになりました。

天正六年(1578)、秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主・衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となりました。

今日に残る遺構は、この時のものです。

堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城塞を築きあげた背景として、櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、残されて遺構から読み取ることができます。

櫨谷を守り続けた端谷城は落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城で、当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構であり、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。

『現地案内を参照』

 

  
  北側に東西約40m、南北約20mの物見台を持つ一の曲輪(本丸)があります。
 
  本丸北部には、人工の巨大な大堀切、そして満福寺のすぐ後ろ二の曲輪との間にも堀切があります。
  

  
  お寺の境内に「衣笠範景公顕彰碑」があります。
 

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