細川館
兵庫県三木市細川町桃津

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第二神明「玉津IC」を降りて国道175線を北上します。 高木交差点で東の20号線に入り、三木城の北側を通り、「本町交差点」から20号線を北へ走ります。

山陽自動車道を越え、「豊地交差点」を越えて800mほどの「冷泉橋」を東へ入ります。 「藤原惺窩生誕地」の案内どおりに走ると細川館(ほそかわ)に着きます。

別所氏と秀吉の「三木合戦」の地は、近世儒学の祖と呼ばれる藤原惺窩が生まれた地でもあるのです。

 
  「藤原惺窩の像碑」

「儒学」の言葉は知ってるけど、内容はよく分かっていないよ。

儒教は中国の孔子が創始者らしく、日本では江戸時代に儒教(中でも朱子学)を学問としたらしいよ。
 

 
藤原鎌足の子孫である藤原定家の子・為家の子の時に二条・京極・冷泉の三家となり、長男・二条為氏、次男・京極為教、そして三男・冷泉為相は三木市の細川荘に移り住みました。

永禄四年(1561)、冷泉為相から四代後・為純の第三男として藤原惺窩が生まれています。 藤原惺窩が七、八歳の頃から竜野の景雲寺で禅僧として修業していたのですが、十八歳の時に父・為純が三木城主別所長治に滅ぼされました。

この事を知った惺窩は、母や妹と京都に逃れて、叔父泉和尚のいる相国寺に入り仏教と儒学を学びました。

天正八年(1580)、三木城は秀吉の手に落ち、十五年には天下を平定しました。 その後の惺窩は儒学者・姜杭と出合い儒学の道を歩むのです。

徳川家康は惺窩を二千石の高禄で迎えようとしましたが、学問の自由を守って仕官を好まず、洛北市原の山荘に住みました。
惺窩の門弟には四天王といわれる、林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵がいます。 この林羅山が家康・秀忠・家光・家綱の徳川四代に仕え江戸幕府に影響を与えた人物です。

『参考文献を参照』

 

  
藤原惺窩誕生の碑
  「藤原惺窩誕生の碑」

加藤清正、浅野幸長、戸田氏鉄らの戦国大名にも教えたらしいよ。

「儒学」は理解できないけど、とにかくこの地に冷泉家の祖が住まれていたこと自体がすごいよね。
 

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