生野城
兵庫県朝来市生野町口銀谷

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  国道312号線「生野北口交差点」から東側の429号線へ曲がると、すぐ生野の町に入ります。

兵庫県のほぼ中央に位置するここの山間には、銀山採掘で知られる町があり、その北背後の標高601m生野古城山には生野城(いくの)があります。 今回は麓の「びわの丸健康公園」の裏手から登っていきました。

2003年3月、ここ播磨と但馬の国境に位置する生野城は、山名氏が赤松氏に備えて築いた城で、銀山とともに南北朝の中世から戦国時代、そして現在へと時の流れる跡が残っているのです。

 
  中央には、なぜか大きな岩石がありました。 お屋敷の床から、かなり突き出ていたと思われます。

山頂には、36m4方の主郭(本丸)を中心に、西の但馬街道に向けて、大規模な二の曲輪、三の曲輪が配置されています。

 

 
応永三十四年(1427)、但馬の守護職・山名時熈(宗全の父)は、4代将軍足利義持の命により、播磨の守護職赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城です。

標高601mの山頂には、36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模な二の曲輪、三の曲輪がつづき、尾根の要所には、多数の別郭や堀切りを構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見ることができます。

570余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切りがよく残り、戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。

又、城跡からの眺めはすばらしく、南の方向には、赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、攻撃に備えて万全の構えを示していたことがよくわかります。

『現地案内を参照』

 

  
ニの曲輪
  「ニの曲輪」

ここからの眺めはすばらしく、山麓の生野の街並み、遠くには赤松氏の播磨平野が見えそうです。
 
小規模な曲輪
  更に西には5〜6m程度の小規模な曲輪が連続して配置されています。

赤松軍の攻撃に備えるために、尾根の要所には多くの別郭や、堀切りも造られています。
 

  
生野書院
  「生野書院」です。 この日はお休みで、また寄ってみます。近くには、

「生野義挙跡碑」
生野代官所の跡で、山名豊祐が銀山経営の拠点として、三層の天守閣、隅櫓を備えた城を築き、徳川時代には本陣を代官所とした跡です。

「芭蕉翁蓑塚(みのづか)」
芭蕉遺品の七点のうちの一つ(古蓑)を、高弟の広瀬惟然が譲り受け、塚を築きました。 蓑塚は全国に四ケ所造られ、その内の一つです。
 
生野銀山の門
  「生野銀山の門」

808年に開坑といわれ、1542年に本格的な採掘が始まりました。 山名氏・太田垣氏の後は、織田氏、豊臣氏を経て徳川幕府の直轄地となりました。

その坑道は、地下880m、延350kmも採掘されているのです。まっすぐに伸ばすと、ここから名古屋までのトンネルができるのですよ。 
  

  
銀山湖
 

「銀山湖」

周囲が12kmの巨大な人工湖です。 生野は歴史の町でもあり、沢山の自然とレジャーが楽しめる町となっています。


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