梶山城
兵庫県たつの市揖保川町市場

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  国道250号線(通称:浜国)を御津町の「刈屋交差点」を北へ曲がり、133号線そして揖保川の西側の441号線を走ります。 八王子大権現を過ぎて800mほど行くと、揖保川の西側には標高75mの山に梶山城(かじやま)があります。

赤松氏一族の跡を残す梶山城、一つの道標に導かれた城跡、その最期は哀しき物語の跡だったのです。

 
  肥塚氏の子孫の方が建てられた碑です。

こういう碑を見ると嬉しいのと、ほっとするよ。 歩いてきた道は間違っていないと分かるんだよね。
 

 


赤松円心には4人の子・範資、貞範、則祐、氏範がいます。 この長男・範資は早くして病没したので三男の則祐が嫡流として継ぎました。 この範資は七条家と呼ばれ六代後の義村は、赤松家を再興した政則の養子となって置塩城の二代目城主になっています。 

明徳三年(1392)、赤松七条家の範資から三代後・教弘が梶山城を築き、のち教弘は揖保川町袋尻の伝台山城(つだいさん)に移り、肥塚頼房(こえづか)が入りました。 この肥塚氏は鎌倉時代に播磨へ下向した東国武士で、赤松氏の被官になったといわれています。

嘉吉の乱(1441)で、赤松一族が城山城に籠り滅亡した時、この赤松教弘の子・教久(元久)は自害、肥塚頼房の子・頼清も戦死し、梶山城は落城したのです。

その後、応仁の乱で赤松家が再興されると、龍野城主・赤松村秀の配下であった肥塚頼清の子・憲春が梶山城に入り、光憲、祐忠と続いています。

弘治二年(1559)、肥塚祐忠は室山城主・浦上政宗の招きで室津を訪れている時、留守を狙って楯岩城の広岡五郎が梶山城を攻め、祐忠の弟・祐政は討死、妻の白菊は三人の子を城外に落ち延びさせ、城に火をかけて自害しました。

肥塚祐忠は事態を知り、急ぎ帰ったのですが途中で広岡勢に攻撃され、御津町稲富の円融寺で妻を追うように自害したのです。

『参考文献を参照』

 

  
八王子大権現
  「八王子大権現」

揖保川沿いで登城口を捜していると、この神社がありました。 ここには「権現山古墳」の登山道の案内があります。

古墳があるならお城もあるだろうと思い、ここから登りました。 途中に斜めになった赤い鳥居を見てドキッ、さらに奥へと道は続きます。

最後に道は左右に分かれ、左は古墳へ。 道標はないけど右へと進みます。
 
猿田彦社
 

「猿田彦社」

道は大迷路の中を歩いている感じ、両側には背丈ぐらいの草木で周囲が見えないよ。

随分歩いたと感じた頃、やっと城跡に着いたと思った。 でもここは猿田彦大神を祀る社でした。

猿田彦大神は、ものごとを善い方へ導いてくれる神様だよ。 でも一体、梶山城はどこかな。

 

  
とにかく山頂
  「とにかく山頂」

ここで一息、郵便受けがあるよ。 手紙が入ってたらビックリするから、中を見なかったけど、どう見ても何かあった所だよ。

「台山」と書かれていたけど、ここが「伝台山城」じゃないよね。
ところで梶山城はどこ、ここからは降りてしまうよ。
 
城跡
  随分と降ると、板に書いた「梶山城へ」の道標があった。 この道標のおかげで不安から安心へと変わったよ。

城跡碑もほっとするね、もう気持ちは探索モードです。 あちらこちらと写真をいっぱい撮りました。
 

  
石
  所々に石があるのですが、ほとんどは自然石みたい。

でもこの石は人の手で削られているよ、嬉しい。
 
登山口
 

道標があったところから降りると、この登山口に出ました。 急な降り道ですべって、谷に落ちそうにもなりました。
(本当にすべるよ)

周りが見えない道を歩いていると、不安になるね。 でも一つの道標が気持ちを安心にしてくれたよ。

揖保川の大きな流れに導かれ、最初の八王子大権現へとゆっくり歩きました。

 

城跡探索