叶堂城
兵庫県南あわじ市松帆古津路

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  淡路鳴門自動車道、「西淡三原IC」から31号線を西へ「湊交差点」から御原橋を北側へ渡り、すぐ県道125号線を東へ進みます。 500mほどの感応寺がある所が叶堂城(かのど)です。

淡路島の南、もう四国への架橋は近いけど、ここで「賤ケ岳の七本槍」が出てくるとは思わなかった。 でも西淡町の技術は、現在の先端ハイテクより未来に残ると思ったよ。

 
  これは叶堂城の石材を使って、石積み職人の栗田万喜三さんが復元された石碑です。

滋賀県大津市の北に穴太という街があり、そこに伝わる石積みの技術が穴太積といわれています。

その技術は大きさがバラバラの石を巧みに積み上げる方法で、安土城や大坂城も穴太積だそうです。
 

 


文録四年(1595)、志知城主・加藤嘉明は愛媛県松前町の松前城へ転封になり、この地は秀吉の代官・石川氏と三宅氏が入り叶堂城を築きました。

慶長五年(1600)、関ケ原の戦いで西軍として参加した石川氏は敗走し、叶堂城も廃城となりました。

とありますが、今回は加藤嘉明について書きます。

日本に天守閣が現存するお城は12城、そのうち四国に4城あります。 丸亀城・松山城・宇和島城・高知城、この愛媛県の松山城を築いたのが加藤嘉明です。

嘉明は父・教明から秀吉に仕え、播磨三木城攻めで軍功をあげ、そして賤ケ岳の戦いでは柴田勝家を破った「七本槍」の一人なのです。

この「七本槍」、秀吉には小姓が九人いました。 福島正則、加藤清正、脇坂安治、加藤嘉明、片桐且元、平野長泰、石川一光、糟屋武則、桜井左吉(家一)です。 でも、この戦いで石川一光は戦死、桜井左吉は弟・秀長の家臣だったので、結局は七人になっています。

余談ですが、糟屋武則は加古川城主で、天正五年(1577)の秀吉が毛利氏の中国攻めで播磨に入った時、黒田官兵衛の推挙により秀吉に仕えた人物です。

そして関ケ原の戦いの時、加藤嘉明は東軍として戦い、その功績で慶長七年(1602)から松山城の築城を開始し、のち寛永四年(1627)には福島県の会津若松城へと移るのです。

淡路島の三原郡で過ごした加藤嘉明、関ケ原での選択はそれぞれの人生を変えてしまったよね。

『参考文献を参照』

 

  
感応寺
  慶長五年(1600)、この城跡に感応寺を再興し、蜂須賀藩の崇敬を得ていました。

この右側に三原川が流れている、地図を見ると新川・大日川・入貫川・孫太川・倭文川・三原川が集合して湊港の河口に続いているよ。

そして河口から南に行くと四国へつながる「大鳴門橋」。 ここから四国へ行くか、岡山の瀬戸大橋で行くか、四国で何泊するかより悩んでしまうよね。
 
西側の石垣
 

志知城の石垣を利用したらしいよ。

淡路と言えば、「瓦」も思いだすね。 1400年前の奈良時代から淡路瓦は「いぶし瓦」としてここ西淡町を中心に発展してきました。

今でも100以上の窒元があって、いぶし瓦の産地として日本一らしいよ。

ハイテク技術と言えばすぐ電気製品を考えてしまうけど、石積みや瓦の技術の方が未来まで「Made in Japan」なのかもね。

 

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