恋の浜城
兵庫県姫路市白浜町

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国道250号線を東へ走り、市川を渡ってから1.8kmほどで山陽電鉄「白浜の宮駅」があります。

駅の北側の集落周辺が恋の浜城(こいのはま)と云われています。

2005年の3月、春だと思えば雪が舞う。 やっと綴れた白紙のページ 橋を越えれば 春さそう恋の雫。

 
  「恋塚」

何故、恋の浜と呼ぶのか分からないよ。 やっと出会えた時は嬉しかった。

実際の「恋の浜城」は駅の北側と云われている、確かに住宅街には堀が東西南北に走っている。

ここは駅の南、松原八幡神社を南に行った所だよ。
 

 


文和年間(1352-55)、恋の浜城から西にある妻鹿城主・妻鹿孫三郎長宗の幕下松原掃部介が築きました。

播磨地方の瀬戸内海に近い所を山陽電鉄が走り、「白浜の宮駅」に恋の浜城があります。 一つ西の「妻鹿駅」に妻鹿城、さらに2つ西の「西飾磨駅」には三木氏の英賀城があります。

話は四国の愛媛県、平安時代の伊予の国では海賊の横行がはなはだしく、越智氏が押領使として治安維持の任務につき、その越智氏の一族が河野氏です。

源平の頃、頼朝に味方した河野通清・通信は高縄山で兵を挙げ、伊予国守・平維盛の赤滝城(愛媛県西条市)を攻め落として、義経と共に屋島を攻撃しました。

正中の変(1324)、元弘の変(1331)で後醍醐天皇は2度の鎌倉倒幕に失敗した時、河野氏の一族である土居通増と得能通綱は楠木正成に付きました。 一方、河野通盛は北条氏に付いて六波羅探題を援助するのですが、のち足利尊氏に付いて、道後の湯築城を本拠としています。

康暦二年(1380)、河野通盛の子孫は通朝・通堯・通近と続き、この通近が伊予国から播磨の恋の浜城へ入ると三木氏を名乗り、のち近重・通重(福泊構主)・通武と続きました。

嘉吉二年(1442)、三木氏は赤松氏に代わって播磨に入った山名宗全から、英賀城に入るように要請され、恋の浜城から英賀城に移るのです。

『参考文献を参照』

 
  
恋の浜橋
  「恋の浜橋」

昔はこの辺りまで海だったのかな。

地図を見ると、東の的形には小赤壁の岸壁、そこから西へたどると白浜海岸、さらに西がこの浜手緑地だよ。

橋の西側には木々が生い茂った空間がある、ちょっとドキドキな気持ちになるよ。
 
楼門
  「楼門」

「灘のけんかまつり」で有名な神社です。

768年、毎夜沖合いで光るものがあったので、網を入れると霊木が得られました。 そこで湊の大岩の上に祀ったのが始まりです。

その後、嵯峨天皇の勅願社となり、中世には赤松円心の庇護する僧兵を抱かえる神社になりました。

その為、応仁の乱では山名氏によって焼かれるのです。
 

  
松原八幡神社
  「松原八幡神社」

山名氏から播磨国を取り戻した赤松政則が再建しました。

その時、お旅山頂に米数百俵を積み上げ喜こび、それを契機に祭りの屋台が造られました。

しかし天正時代、秀吉の三木城攻めの時、毛利氏によって焼かれるのです。

さらに秀吉の怒りにもあって、社領も削られるのですが、黒田官兵衛によって元に戻りました。
 
恋の浜
  「恋の浜」

神社を見たのは秋空の頃、今日は雪舞う冬の空。

さりげない橋を渡る風景、まだ沢山の白紙を残しているような気がするね。

残したページ、全ての色で綴ってみたいよね。
 

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