国分寺構居
兵庫県姫路市御国野町国分寺

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  JR御着駅近くの「御国野交差点」を北へ走ります。

500mほどの国道沿いには国分寺構居(こくぶんじ)があります。

2005年9月、いつの間にか夏を忘れてしまう。 一雨ごとに秋の風、すっかり稲穂も秋色に育ったね。

 
  小寺氏の御着城の支城です。

播磨では赤松氏が衰えてくると、三木城の別所氏、御着城の小寺氏、英賀城の三木氏が勢力を持ち始めます。

黒田官兵衛の24騎に、原弥左衛門がいて本名は原田氏らしい、でも赤松氏家臣の原田氏の系統と思うけど、どうなのかな。
 

 
御着城主・小寺氏の支流である原田氏が国分寺構居の領主となりました。

享禄二年(1529)、小寺政隆は御着城から庄山城に移ると、赤松家重臣・浦上村宗に攻められるのです。

この戦いで、政隆と共に原田氏も討死したと云われています。

『参考文献を参照』

 

  
  「播磨国分寺」

天平13年(741)の奈良時代、聖武天皇の詔により国ごとに国分寺、尼寺が置かれました。

ここは国道2号線の南側、構居もこのあたりと思っていたけど、随分北にあるよ。

この礎石の所には七重の塔があったらしい、タイムマシンで当時を見たいよね。
 
  「播磨国分尼寺跡」

ここが国分寺と同じ時に建てられた国分尼寺、北側にはスポーツセンターがあるよ。

奈良時代、文武天皇と藤原不比等の娘・宮子との間に生まれたのが聖武天皇、天武天皇の孫は長屋親王、二人はライバルだった。

奈良時代の話、奈良を歩いてみたいよね。
 

 
  「壇場山古墳」

構居から少し南西、県下で3番で播磨では一番大きいよ。

神功皇后が西征の途中、この山に壇を築いて戦勝を祈ったと伝わっている。 日本武尊(やまとたける)の子・仲哀天皇の皇后が神功皇后だよね。

タイムマシンで古代の人が来たら、一生懸命育てた稲穂を見て安心、よく分からないことだらけだから、すぐ帰ってしまうかな。
 

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