上月城
兵庫県佐用郡佐用町上月

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  国道373号線、大好きな千種川沿い、苔縄城、白旗城を通り過ぎて北へ走ります。

JR姫新線「上月駅」の南、標高140mの荒神山には、上月城(こうづき)がありました。

2009年9月、季節は初秋。 祝1000城達成、ほんと素直に喜びたいと思います。

 
 

やっとやっと1000城目のお城です。 長かった、本当に長かったよ。

上月城は3年前、冬空に訪れているんだ。

とにかく「1000城達成!」、喜びたいね。


 


鎌倉時代末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、太平山に初めて築いたと云えられています。

上月氏は、景盛・盛忠・義景・景満と続くのですが、いづれかの時に、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したのが、上月城とのことで、中世山城の様態をよく残しています。

赤松氏は、播磨・備前・美作三ケ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441)で総領家が没落することになり、播磨も山名氏が支配する所となりました。

その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復しますが、山名氏、赤松氏、尼子氏等が攻防を繰る返えすことになりました。

天正5年(1577)、信長は毛利氏攻めの為、秀吉を総大将として播磨に入り、毛利氏に味方した佐用の福原城を攻略、高倉山に本陣を置き、一万五千の軍勢で上月城を包囲、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日に上月城は落城、赤松政範は自刃し果てました。

秀吉は、城中将士の首をはねた上、見せしめの為、城中の女子子供二百人を串刺と磔にして備前美作播磨の国境付近にさらしたのです。

秀吉は上月城を尼子勝久、山中鹿之介に守らせました。 上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退、宇喜多勢は之を上月十郎景貞に守らせましたが、再び秀吉軍により落城しました。 景貞は敗退するも山中で自刃したと云われています。

再び尼子勝久、山中鹿之介は上月城に入ると、毛利軍は山陰、山陽の両道より三万の軍勢を以って、天正6年(1578)4月18日、上月城を包囲しました。

秀吉は、急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めましたが、三木城攻略の為、6月26日高倉山より兵を引くのです。

この為、上月城は孤立し遂に7月5日、勝久は毛利勢に降伏し開城自刃しました。 山中鹿之介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えたのです。

その天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っています。 

『現地案内より』

 

 
  思えば6年前、2003年1月から城跡探索は始まった。

最初の頃は御着城、赤穂城や明石城。

建物があるお城、その時、本屋で「ひょうごの城紀行」に出会う。

それまで山城という存在、ましてや堀切や竪堀、わずかな石垣の存在すら知らなかった。
  
  知ってしまった。

落ち葉踏む音、恐々歩く道、山城の面白さ。

何故と聞かれても、ただ行くだけの面白さ。

冬の空、枯れ木。

ウキウキは何故、今でも分からないよね。
 

城跡探索