車瀬城
兵庫県三田市屋敷町

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  中国自動車道の「神戸三田IC」を出て東へ3kmほどで三田市街に入ります。 武庫川に架かる三田大橋を西へ渡ると有馬高校辺りが車瀬城(くるませ)です。

2005年4月、三田のお城も沢山の人物が登場してくるよ、楽しみだね。

 
 

「古城姫高稲荷社」

九鬼澄隆・隆姫の父娘が姫高神として祀られています。

三田城の二の丸が車瀬城と云われている、でも正確には分からないよ。

天正十年(1582)、秀吉から山崎堅家が城を受け、家臣・車瀬政右衛門が縄張り修築したから車瀬とも云われているよ。

 

 


赤松円心の四男・氏範がこの有馬郡を領有するのですが、南朝方であった氏範は播磨の清水寺で自刃、代わって兄の則祐の子・義祐が有馬郡の守護となり有馬氏を名乗りました。

のち有馬家は持家・元家・則秀・澄則・村則・村秀・国秀が嫡流で、澄則から分かれた庶流家は則景・重則・則頼と続きます。

この車瀬城は嫡流家の有馬村秀が築城した説、伊丹有岡城主・荒木村重の一族である荒木平太夫が築いた説があります。

しかし嫡流側の国秀が荒木村重の支配下になると、不義の疑いから自刃、有馬氏嫡流は絶え、代わって荒木平太夫が入りました。

一方、分家の有馬重則は三木市の三津田城に移り、そこで生まれたのが有馬法印則頼です。 則頼は三好長慶の三木城攻めの際、萩原城(神戸市北区)を落とし城主になりました。

天正五年(1577)、秀吉の三木城攻めが始まると、秀吉に付いた則頼は淡河城を攻め落とし、萩原城から淡河城へ移りました。

慶長六年(1601)、則頼は関ヶ原の戦いで家康側に付き、三木から三田に移ると、再び有馬郡の領主に返り咲くのです。

慶長七年(1602)、丹波福知山城主・有馬豊氏(則頼の子)が継ぎ、のち九州久留米に移ると有馬氏による三田の支配は終わります。

寛永三年(1626)、出羽国上山城(山形県)から松平重直が入り、また重直が豊前の龍王に移ると、志摩の鳥羽城主・九鬼久隆が入ります。 そして車瀬城を廃して、三田陣屋を構えました。

『参考文献を参照』

 

  
堀跡かな
  「堀跡かな」

小さな橋を渡り、山裾を少し歩けば神社だよ。

九鬼久隆が入ると車瀬城を中心に城郭を拡充するのですが、お城が造れなかったので、三田陣屋を構えました。

安政二年(1855)の古図には「天守閣跡」が書かれている、それが唯一、車瀬城を表しているらしいよ。

三田のお城、沢山人物が登場するね、ほんと楽しみだね。
 

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