篠の丸城
兵庫県宍栗市山崎町最上山公園

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  国道29号線を鳥取方面に北上し、中国縦貫道路沿いを走ると、間もなく山崎の町に入ります。 中広瀬交差点を西へ500mほど行くと、山崎町役場があり、その北側の標高324mの山頂には、篠の丸城(ささのまる)があります。 麓の八幡神社の東側にある公園用駐車場が利用できます。

2003年2月、この地には役場の南側に近世に造られた鹿沢城(山崎城)があります。

 
  山頂の広場には、「篠ノ丸一族鎮魂碑」や、初代一本松址、三代目一本松があります。(確かに松が1本あります)

途中、標高200mあたりには「平太丸」があり、今の「最上山公園」になっています。 ここで疲れて一休み、そこを車が通りすぎました。
 

 
この篠の丸城は三度落城しています。

初代城主については、いろいろな説がありますが、一般的には、赤松家分流・釜内範春で、政則、成久、成勝と続きましたが、嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を殺した「嘉吉の乱」で、最初の落城をしました。

応仁・文明の乱で、赤松政則が赤松家を復興した時は、篠の丸城の北方にある長水山頂の長水城(ちょうずい)に、赤松一族の宇野氏を入れ、この時に篠の丸城も復帰したのです。

天文七年(1538)、出雲の尼子氏が播磨に進行してきた時、篠の丸城は長水城と共に二度目の落城をしました。 尼子氏は二年間支配していましたが、尼子氏が去った後は宇野氏が復活しました。

三度目は、天正八年(1580)の羽柴秀吉の播磨平定軍の前に落城したのです。
秀吉から山崎の地を預かった姫路城、御着城の黒田官兵衛(孝高)は、この篠の丸城に本拠を置きました。

秀吉の九州平定が終わると、孝高は豊前中津に移封となり、代わって龍野城から木下勝俊が入封し、この時山城の篠の丸城は廃され、南の平地に、山崎城が築かれました。

『参考文献を参照』

 

  
帯曲輪
  写真のように曲輪全体の周囲には一段下がった通路で囲まれ、 北側と西側には、大きな土塁が張り巡らされています。
 
山麓の八幡神社
  「山麓の八幡神社」
 
境内には重要文化財に指定されている「モッコク」があります。 これは応仁の乱時代から、500年間保存されてきた「神木」です。 大きな木が、地上3mぐらいから、8本の幹に分かれています。

2月19日は年に一度の大きな祭りだそうです。
 

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