下津橋城
兵庫県神戸市西区玉津町出合

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  JR明石と西明石間の国道175号線を北上します。 2kmほどで「玉津町出合交差点」がありますのが、手前の「持子交差点」を西へ曲がり、100mほどで北側へ入ると「西光寺」と「宗賢神社」があります。

明石川、そして三木街道が通るこのあたりは、古くから勢力を持った明石氏の下津橋城(しもつばし)があります。

 
  神戸西区・明石市・三木市には「宗賢神社」が20ぐらいあるよ。

「播磨国風土記」の於奚(おけ)と袁奚(をけ)という二人の皇子が美しい娘・根日女(ねひめ)に求婚をしました。  二人は互いに譲り合い、いつまでたっても結婚しないので、ついに根日女は年老いて亡くなりました。 その墓が加西市の「玉丘古墳」です。

この二人は顕宗天皇と仁賢天皇で、その名にちなんで祭神とする神社が宗賢神社なのです。 「玉丘古墳」は善坊山城を見てね。
 

 
この下津橋城の城主は明石則行といわれています。 明石氏は古くから東播磨の有力国人で、菅野城(神戸市西区)から、この下津橋城を経て枝吉城(神戸市玉津)へと移っていきました。

明石氏の系図は、明石尚行・祐実・則行・長行・祐行・越前守某・則実とされてます。 室町中期の長禄二年(1458)、赤松氏の遺臣が赤松政則をたてて赤松家の再興をする時に、この遺臣の中に明石則行が入っていました。

この時、一条の大宮猪熊の合戦では、強力な明石越前守が山名教之の家臣・片山備前守と山名孫四郎を討ち取るという大手柄をたてています。

天正五年(1577)、羽柴秀吉が播磨に入国した時、播磨の国人たちは毛利方か織田方かの選択を迫られました。 播磨の大半の武士が三木城主・別所氏を中心に、織田氏に対抗したのですが、明石則実は秀吉方の一員となりました。 その後は、黒田官兵衛の父・職隆の妻が明石氏の娘であった理由からか、官兵衛のもとで播磨平定に力を尽くしました。

天正十三年(1585)、天下を取った秀吉は大名の国替えを行い、摂津の高槻城主・キリシタン大名の高山右近がこの明石に移り、船上城主となり、明石則実は豊岡城へ移りました。

文禄四年(1595)、豊臣秀次の事件に連座し切腹・除封という処分を受け、その後は大名として明石の地に帰ることはなかったのです。

『参考文献を参照』

 

  
  「誰かな」

神社の境内にあったけど、騎馬に乗ってる人は誰かな。 明石則行かな、すごくかっこいいよ。
 
 

神社境内の裏はかなり大きな土塁になっています。 左側は竹がいっぱいです。

神戸の西区、この三木街道から東は地図があっても必ず迷うよ。

いまだにグリーンスタジアムへは、まともに行けたことがないよ。 高速を通っていると、気がついたら四国の徳島県だから、注意してね。

 

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