白旗城
兵庫県赤穂郡上郡町赤松・細野・大富・野桑

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  千種川沿いの智頭(ちず)急行鉄道「河野原円心」駅手前の細野口を東に入ると「赤松円心居城 白旗城(しらはた)」の大きな標識が見えます。

そこが登山口になっています。 城跡へはこの赤松側からと、山の東側、野桑側からも登ることができます。

 
  この標高440m白旗山の頂上には、赤松円心則村が築いた白旗城(しらはた)があり、現在は置塩城・感状山城とともに国指定史跡にもなっています。

この付近は赤松家ゆかりの遺跡やお寺が数多く残されています。

いかにも南北朝時代に駆け足で生きた人物・播磨の赤松氏、その始まりはここ白旗の城跡にあるのです。
 

 
元弘3年(1333)、播磨の土豪赤松円心則村は後醍醐天皇の挙兵に応じて、反北条氏への旗を挙げ、建武三年(1336)ここに白旗城を築城したのが始まりです。 一説には築城は子の則祐ともいわれています。

則祐は「元弘の変」前後から後醍醐天皇、護良親王、楠木正成らと行動を共にしており、築城も彼らの影響を受け、この白旗城も河内・楠木氏の「千早・赤坂城塞郡」に構造がよく似ているのです。

延元元年(1336)、新田義貞に当時九州に身を置いていた足利尊氏討伐の命が下り、義貞は六万の兵を率いて播磨に侵入してきました。

一方、足利尊氏側に立った赤松則村は、千人ばかりの兵で、ここ白旗城で義貞の攻撃を迎えうちました。 その時には楠木氏も得意とした山岳ゲリラ戦法を使い、50余日の籠城戦を繰り広げ、そのうち足利尊氏の東進を聞いた新田勢は撤退したのです。

赤松氏は後醍醐天皇や足利尊氏に味方したことで、室町幕府から重要な官職を得ることができました。 赤松氏は則村から、則祐、義則、満祐と続き、則祐の時に白旗城から東の城山城(きのやま)を築城し、順次城山城に本拠を移していきました。

そして満祐の代の「嘉吉の乱」で敗北し、一旦は赤松惣家は滅亡するのですが、その後政則の時に復興し、城山城よりさらに東の置塩城を築城し本拠としました。 その後、白旗城の重要性はなくなっていったのです。

『参考文献を参照』

 

  
 
登山口ある標識、さすがにこんなに大きいと道に迷うことがありません。うれしいかぎりです。
 
 


登山口からコンクリートの道で、楽勝かと思っていたのに、すぐ岩だらけの道になりました。 こんな岩道が1kmぐらい続くのです。

上からの石で攻められると、さすがに攻め登ることはできませんね。 


 

 
  山頂には、全長550mにも及ぶ尾根上に、本丸・二の丸・三の丸・櫛橋丸・馬場丸・待屋敷跡や土塁・堀切・石積などの防御施設が残っています。

ここは「櫛橋丸」と二の丸の間にある「堀切り」です。 尾根上に延々と小規模な曲輪が点在しています。
 
 

二の丸です。 この「二の丸」から「馬場丸」を通って、「本丸」に入ります。 その向こうには「三の丸」があります。 

   

  
  「河野原円心」駅の南にある宝林寺、「赤松三尊像」があります。

赤松円心・赤松則祐(三男)、別法和尚(雪村友梅説もある)、覚安尼(則祐の娘千種姫)の木座像、南北朝時代 (十四世紀)の作といわれています。

この像はよく書籍の写真で見られ、こうして実際の像を眺めていると、彼らが城を駆け巡っていた時代への興味もさらに深くなっていきます。
 

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