宮津城
京都府宮津市

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  舞鶴自動車道、「綾部JC」から京都縦貫自動車道に乗り換えて、最終の「宮津天橋立IC」から宮津の街へ入ります。

青い海は宮津の港、その市街には宮津城(みやづ)があります。

2005年5月、日本海探索の一場面。 つかの間の潮の香り、でも本当の風景は、旅の疲れを癒してくれるよね。

 
  宮津市役所の東に流れる大手川、この辺りが宮津城だよ。

改めて地図を眺める。

三重県の伊賀上野から奈良、大阪を通って、日本海まで京都が続く。

横にすると大阪・名古屋間と同じ距離、さらに宮津から北の丹後半島へと続く、びっくり。
 

 


信長の命で、丹後を領した細川氏(幽斎・忠興)は、天正8年(1580)8月、宮津に入り、急いで浜手新城更に城下の建設を進めました。

慶長5年(1600)、忠興が会津上杉氏征討に出陣中、大阪方は丹後に兵をむけたので、幽斎は宮津城を自焼して田辺(舞鶴)に籠城します。

関ヶ原戦後、忠興は豊前中津に移封、あとへ京極高知が入部して田辺を居城としました。

元和8年(1622)、その没後丹後を三分して、嫡子高廣が宮津城主になり、彼は、十数年を費やして城郭・城下を整備しましたが、その際細川氏時代の縄張りがどの程度踏襲されたかは明らかではありません。

昭和5年の二ノ丸東門(外不明門)、北方の第1次時調査に続いて、宮津市教育委員会は、本丸東門(内不明門)・二ノ丸東門付近の第二次調査を実施しました。

その結果、二ノ丸東門の外に三ノ丸に通じる土橋のほか内掘石垣、二ノ丸内の水道と思われる石組み溝等の遺構を検出しました。

『現地案内を参照』

 

  
大手川
  「大手川」

川岸の石垣、川を上れば大江山、思い出すのは百人一首。

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

藤原保昌と妻・和泉式部が丹後に居た時、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)が都で詠んだ歌だよ。
 
一色義清自刃の処
  「一色義清自刃の処」

橋から東へ100mぐらい、一色稲荷社だよ。

細川幽斎の娘婿であった一色氏の当主は、細川家屋敷にて忠興の手で命を奪われました。

その後、一色氏の怨霊に対する恐れから、城郭内に社を祀っていると云われています。
 

  
太鼓門
  「太鼓門」

南へ歩くと宮津小学校、東には移築門がある。

校舎、花の黄色は旅人が足を止める場面、東には宮津駅、駅前が二の丸かな。

駅から北へ歩くと「宮津城の石碑」、駅との間が本丸跡かな。
 
宮津港
  港を歩くとカモメが八羽。 日本三景は松島、宮島、そして天橋立だね。

現在の旅人は、テレビやインターネットで世界中の風景を楽しめる。

次から次へとバーチャル場面は切り替わる、感動なのに気持ちは疲れてしまう。

青い海、波止場の香り、見慣れたはずの風景なのに、カモメはいつも元気だね。

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