山家城
京都府綾部市広瀬町

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  舞鶴自動車道、「綾部IC」から77号線を南へ向かい、綾部の街から由良川に沿って国道27を東へ走ります。

5kmほどで由良川と上林川が合流、山麓には陣屋、そして標高232m(比高130m)の甲ヶ峯山頂には山家城(やまが)があります。

2005年5月の終わり、季節は梅雨と変わります。 二千年の時を越える合唱の声、寝れないのは今宵の微風、静かに音楽鳴らそうかな。

 
  ここは山家陣屋のある場所、ここから登っていくよ。

登ろうした所に「伊也神社」「岩ほこら」「衛門屋敷跡」「照福寺跡」の道標がある。

近いと思っていたけれど・・。
 

 


ここは、谷出羽守衛友(もりとも)が天正10年、秀吉より1万6千石をもって、美濃国から封ぜられ、谷藩政中心の地となっていました。

藩主谷出羽守衛友の父は、大膳亮衛好といい信長に仕え、天正4年の大阪本願寺攻めに軍功をあげ、家紋「揚羽蝶」を賜るが、天正7年播州三木城別所長治を攻め討死し、三木の如意山金剛寺に祀られています(大膳郭に墓地)

山家初代藩主・谷出羽守衛友は、父衛好と共に三木城攻めに加わり、父討死のとき、その屍を奪い返し仇を討ち取りました。 このときの勇戦の感状を、秀吉から家紋「五三の桐」を受け、本領(山家)加増され、山家に封ぜられました。

城跡内の灯籠には、史実を止める「揚羽蝶」と「五三の桐」の紋が残されています。  こうした歴史を秘める、この山家城跡は、約21,300平方mの面積を有し、城跡内には藩主の祖霊を祀っています。

谷霊神社や背後の山腹には、式内社の一つである伊也神社があり、歴史的な文化をいまも止めています。

『現地案内を参照』

 

  
伊也神社(いや)
  「伊也神社(いや)」

「古事記」や「日本書記」では、十代・崇神天皇は大彦を北陸、吉備津彦を西道に、そして丹波道主(たにはのちぬし)を丹波に派遣したとあります。

その時に、丹波の甲ヶ峯に宮を築かれたのが伊也神社の最初と伝わっています。

のち天正時代に焼失とあるのは、光秀との争いで焼けたのかな、もう神社は過ぎたよ。 屋敷跡に行くよ。
 
左衛門屋敷跡
  「左衛門屋敷跡」

ずいぶん歩いた、所々に道標があったから来れたよ。 今までの経験から、屋敷跡がまさか山頂にあるなんて。

でもよく考えたら、お城は屋敷跡だよね。 すごくいいなこの碑。

崇神天皇のおどろくことは、「古事記」では168歳、「日本書記は120歳で崩じられたと伝わっているよ。
 

  
堀切
  ここは主郭を越えた反対側、手前にも堀切や井戸のある郭があるみたい。

最近、飛鳥・奈良時代の本を読んでる、宵の口、網戸からの涼しい風は合唱も運ぶ。

古代の人も、合唱を聞きながら日本書記を読んでいたのかな。
   
主郭
  広い、東西80mで南北15mだよ。

奈良も行きたいと、考えているともう夜中。 夜中のバーレーンでも寝れない。

「四六時中、好きっと言って・・」、夏のミュージック、音量しぼればカエルの合唱。

今宵、カエル君たちは寝れないね、音楽消して先に眠るよ、おやすみ。
 

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