大河内城
三重県松阪市大河内町矢津町

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  伊勢自動車道「松阪IC」から59号線を南へ、阪内川を渡り国道166号線を南へ走ります。

まもなく道沿いには大河内地区市民センター、その西側の山には大河内城(おおかわち)がありました。

2008年12月、暖かい伊勢の国。 播磨のお城を思いだすよ。

 
  市民センター横の駐車場に車を置く。

そこにはお城の案内、西側には田んぼを隔てて山がある。

標高110m、丘陵先端部の300m四方がお城。

東には阪内川、北には矢津川が流れる。

歩いても五分かな、馬場の跡、二の丸、お納戸と続き本丸へ出るよ。
 

 


城は、北へ突き出た標高110m余りの丘陵端部に築造されており、東裾と北裾とを阪内川と矢津川が洗い、西側と南側には深く谷が入って自然に要害の地を形成しています。

応永22年(1415)、北畠満雅が阿坂城で室町幕府に反旗をひるがえしたとき、築城して弟・顕雅を篭城させたと云われています。 以後、顕雅の子孫が居城し、大河内御所を称しています。

永禄12年(1569)、信長が南伊勢攻略の大軍を発したとき、伊勢国司・北畠具教(とものり)は本拠を多気(一志郡美杉村)より、この城に移し、補強して信長の軍勢を迎えうちました。

8月末より、一か月余りも戦いは続きましたが、北畠軍は利あらず、信長の二男・信雄に北畠の家督を譲る条件で信長の軍門に降り、具教は城を退却しました。

天正4年(1576)、信雄は南伊勢を統治する拠点を、田丸城(度会郡玉城町)に移し、廃城としました。

現在、本丸跡・二の丸跡・西の丸跡と呼ぶ台状地や平坦な馬場跡、土塁や堀切りが城のおもかげを残すにすぎません。

『現地案内を参照』

 

  
  本丸から裏には、西の丸がある、堀切もありそうだね。

播磨の赤松氏の話。

嘉吉の乱で、城山城を逃れた赤松満祐の嫡子教康を、妻の父北畠顕雅をたよって伊勢に逃します。

でも顕雅は教康を保護しなかったため、教康は自刃するのです。

ふと思い出したよ。
 

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