早島陣屋
岡山県都窪郡早島

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  瀬戸中央自動車道、「早島IC」から国道2号線を東へ走ります。 「早島中交差点」から165号線を南へ、すぐ152号線を東へ行くと早島小学校、そのあたりが早島陣屋(はやしま)です。

2005年6月、岡山に来たのは半年前。 2年前の梅雨に来たのは庭瀬と撫川、この街は一つの島からできたんだよ。

 
 

昔、早島の街は「吉備の穴海」と呼ばれ、瀬戸内海に浮んぶ島の一つでした。

戦国時代、宇喜多秀家により干拓の堤防を築いたのが「宇喜多堤」。

江戸時代、旗本戸川家は陣屋を置いた、そして街ができていくんだね。

 

 
戸川家は家祖達安の父秀安(友林と号す)の代から宇喜多家に仕え、備前児島の常山城を預かるなど、宇喜多家の重臣としてその役を担ってきた。

しかし、達安の代になって宇喜多家のお家騒動から達安は遠ざけられ、家康に預けられた。 その縁で関ヶ原の合戦には東軍として参戦し数々の武勲を立て、その功によって29,200石を与えられ、備中庭瀬に居城を構えた。

ここ早島は、江戸時代の初め寛永八年(1631)に達安の次男安尤(やすもと)が3,400石で封じられて以来13代・安宅の代まで、千拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきた。

さてこの陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして宝永六年(1709)に完成した。

陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、東西約65m、南北約120m、約7,800平方m(約2,500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていた。

また、主だった家臣たちの住宅も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安を祭る達安大明神の社もあった。

しかし、この陣屋も明治の初めごろ取り壊され、現在ではここにある塀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなったが、旗本領の陣屋の遺構として貴重な史跡である。

『現地案内を参照』

 

  
石橋
 

「石橋」

陣屋は堀で囲まれ、白州、道場、米蔵や家臣たちの住居を置きました。

でも明治の初め、陣屋は取り壊されて、石橋や井戸だけが残っています。

ここは小学校の西側の石橋、陣屋の案内もあるよ。

橋を改修した時、石に名前が刻まれていたらしい、おじさんは教えてくれました。

 
戸川家記念館
  「戸川家記念館」

橋のすぐ西、日曜と祝日だけ開いてるよ。

戸川家に伝わる江戸時代初期の鎧が展示されています。

そいえば最近、兵庫県神戸市の端谷城発掘で鎧が出てきた、現地説明会もある、と書いてもすでに日は過ぎてるよ。

西側の屋敷が戸川家重臣の住居、東の広い空き地は幼稚園があった、と。
 

  
陣屋井戸
  「陣屋井戸」

記念館の北側、井戸は塀の中、幕末の陣屋絵図にも井戸が描かれているよ。

井戸の屋根の軒丸瓦には戸川家家紋の「梅鉢」、よく見てごらんと、教えてくれる。

この辺りは「不老の道」、中央公民館から10kmの歴史探索道が作られている。

最初から知っていたら歩いていたよ、皆はもう知ってしまった。
 
武家屋敷
  「武家屋敷」

記念館の西側の細い道を歩くと、武家屋敷があるよと、ありがとう。

旗本はいつも江戸にいて、行政・財政・司法や軍事を支え、将軍直属の家臣として、御目見を許されていた。

江戸時代の旗本は5200名、戸川家のような三千石を越える旗本は少なかったんだよ。
 

  
五十橿舎(いかしのや
  「五十橿舎(いかしのや)」

早島は「い草」の栽培を行い、「い草」で織られた畳表は「早島表」という名で大坂や江戸に出荷され、昭和30年頃には日本一の生産量を誇りました。

ここは畳表の問屋、寺山家を文化活動用に改修した建物です。

一つの島から陣屋へ、買い物終えた街のコンビニから車を出した。

早島の歴史の道、今度はゆっくり歩きたいよ、また街を語り教えてね。

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