肩脊城
岡山県東区瀬戸町肩脊

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  山陽自動車道、「備前IC」で降りて、そのまま国道2号線を西へ走ります。 吉井川を渡り、南の備前福岡城を見るとすぐ221号線を北へ、新幹線を越えるとまもなく右手(北側)に「願興寺」の看板があります。

看板から集落への道を奥へ奥へとゆっくり進むと公民館、その東側には標高74mの山頂に肩脊城(かたせ)があります。

城跡探索を始めて2度目の夏、「暑いよ、熱い」、やって来たよ久しぶりの岡山へ。 宇喜多直家の重臣・岡利勝のお城にも「ひまわりが似合う夏」が来ているよ。

 
  2004年7月の初め、太陽いっぱい、梅雨も終わりかな。

いよいよ「夏」。

草木を掻き分け、クモの巣いっぱい、ほんと夏の山城は大好きだよ。

何故、それは「暑さ」を感じる瞬間は、「熱さ」を忘れているからね。

 
 


肩脊城は宇喜多直家の三家老の一人、岡利勝が築いたといわれています。

天文13年(1544)、天神山城主・浦上宗景の家臣であった宇喜多直家は乙子城を与えられ、 この時、戸川秀安、長船貞親、花房正幸そして岡利勝らが直家に加わっています。

永禄11年(1568)、直家が虎倉城主・伊賀久隆を使って金川城主・松田氏も滅ぼし、御津郡建部町の白石城主として入ったのは岡利勝の方です。

天正5年(1577)、直家は天神山城を攻撃、主家の浦上氏を滅亡させ、その勢いで播磨へも攻め入り、佐用の上月城、福原城と赤穂の有年城を落とし、岡利勝に守らせてました。

慶長二年(1597)、岡利勝は秀吉の第二回目の朝鮮出兵の時、宇喜多秀家に従い翌年釜山で病死をしています。

利勝の子・利秀(家利)は宇喜多氏家臣・明石全登の妹を嫁に迎えています。

利秀は、関ケ原の時に徳川氏の命令で肩脊城に籠もったまま参戦せず、のち徳川氏に仕えています。 しかし利秀の子・平内は大坂の陣の時、明石全登とともに大坂城に立て籠もるのです。

元和元年(1615)、平内は幕府の追求により自首するのですが、京都妙願寺にて父・利秀とともに切腹の運命となりました。

『参考文献を参照』

 

肩脊城
 

この山が肩脊城、そんなに高くないけど、どこから入るのかな。

田圃で草刈をしていたおじさんに尋ねてみました。

「お墓から登るよ、去年1人登った人がいたよ」

そうすると今年は初めてかな、夏男20人で来たら自治会で大騒ぎだね。

という訳で、道沿いの自治会公民会の横から入っていきます。

 
堀切
  山裾には大きな堀切、ここは2つの山の間の抜け道になっている。

真っ直ぐ抜けると池、右側を少し登るとお墓、ドキドキするよ。

道は
  ところで山へ登る道はどこかな。

探すように中に入っていきました、道はどこかな。
 
道がない
  道がないよ、おかしいね。 木を掻き分けながら少しづつ登ります。

この時期の山城は大変、おじさんが持っていた草刈り機を借りてくればよかった。

帰りに分かったけど、10mぐらい横に道があった。 ずーと平行に登っていた、お墓の一番上辺りから登るんだよ。

頂上
  着いた、肩脊城の碑がある所。 ここだけ木が無いね。

何故こんなに地面が波打っているのか、不思議だから写真を撮ったよ。
 
掘り
  山頂から少し南へ進むと小さな掘がある、もうこの辺りまでが限界。

と、すぐに諦めさせてくれるから夏はいいよね、よかったです。
 
ひまわり
  降りてきた、おじさんは草を刈っている、軽く会釈「ありがとう」。

ひまわりの観察は小学校以来、よく見るときれいな色だね。

平日のビル街は熱い、道路も熱い、言葉に出すのは「熱い、熱い」。

一週間に一度ぐらいは「暑さが似合う人」になって、「夏が似合う人」になりたいね。

城跡探索