荒神山城
岡山県津山市吉見

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  中国自動車道、「津山IC]で降り、国道53号線を南へ走ります。 JR津山駅から県道26号線を南へ5kmほどで449号線「押淵皿線」を西へ走ります。

まもなく道路の南側には城跡の案内が見え、その南側には標高298m(比高150m)の山頂に荒神山城(こうじんやま)があります。

2004年4月も中旬、美作の花はまだ咲いてます。 半年ぶりの美作は見所いっぱいの荒神山城、「さよならの瞬間」までも見所なのです。  

 
  山麓の「案内の内容」から、すでに感動。

その名の通り強さと魅力が引き締まった城跡になっています。
 

   
永禄8年(1565)、毛利元就は尼子義久を攻め、尼子氏は滅亡、毛利氏は美作へも進出をはじめます。 そして津山市の神楽尾城には毛利方の大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門に守らせました。

元亀元年(1570)、宇喜多直家の部将・花房職秀(職之)は毛利氏の属城(佐良山城、院庄、神楽尾城)に対抗する為、この荒神山城を築きました。 

花房氏は最初、備前の天神山城主浦上宗景の家臣・明石景行(北曽根城主)に付いていましたが、永禄10年(1567)に宇喜多直家に付いた人物です。

天正7年(1579)、花房職秀は当時商売がさかんな戸川の宿(現在の津山市戸川町)に、商人としてスパイを送り込み神楽尾城の情報を集めていました。

ある日、神楽尾城の兵がこの荒神山城を攻めるという計画を知り、職秀は荒神山城の周りに兵を潜ませて待ち伏せをしていたのです。

それを知らずに攻めた神楽尾城の兵たちは敗れ、城に逃げ帰り、その時、職秀の兵は逃げる兵にまぎれて神楽尾城にしのび込み、城に火をかけて神楽尾城を落としたのです。

文禄3年(1594)、宇喜多秀家の時、常陸佐竹家に預けられ、わずか二十四年で廃城となりました。

『参考文献を参照』

 

  
洗顔清水
  「洗顔清水」

津山からこの荒神山城に来る449号線「押淵皿線」沿いで「洗顔清水」を見たのです。

元弘二年(1332)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕計画に失敗して隠岐島に配流される途中、この場所で顔を洗った所だよ。

探してた訳じゃないけど、ここにも南北朝の跡があったよ、嬉しい。
 
登山口
  「洗顔清水」から更に東へ走ると、「荒神山城案内」があります。

「年表」「縄張り」「津山の地図」など、すごく詳しく書かれているのには、ビックリするぐらいの感動です。

「神楽尾城と荒神山城の戦い」の最初「1559年」になってました。 このページに気がつたら「1579」に直しておいてね。
 

  
登山道の石積み
  登山口からすぐ山麓には沢山の石積みがある。

そして左手の方へと進むとあぜ道は小川につきあたり、川を横切ったら山道へと入れるよ。

山道は石がごろごろ、今日は篠向城、宮山城と登った後だけど、この道を登ると、ほんと疲れなんて感じないよ。
 
井戸
  山頂近くです。 ここはフタをされていたのだけど、少しのぞいてみたよ。

今でもきれいな水がいっぱい、ほんと山城の井戸は不思議だよね。 でも何故山頂で、水が溜まっているのかな?

もう一つは大手口の東面を降りたところにもあるよ。
 

  
石垣
  金蔵の段の北側にあります。

今までの石は無数に散らばっていたけど、ここはきっちりと積まれた状態で残っているよ。
 
金蔵の段
  金蔵の段には何があったのかな、物資の倉庫だろうか。 まさか金庫じゃないよね。

この平らな曲輪、よく見るとここの地面も石だらけだよ。
 

  
本丸
  礎石の敷石と、東側にも石垣が見られます。 反対側の斜面にも沢山の石が散らばっている。

春の花、そしてツツジ、ここから見る東の山々は最高だよ。
 
荒神山
 

帰り、また振り返っては山頂を確かめた、「北の段へ」も行ったよね。

美作の荒神山、「さよなら、たぶんもう来ることはないよ」と何度も何度も振り返っては、少しさびしくなる瞬間も山城の魅力なんだよね。

 

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