帯江陣屋
岡山県倉敷市羽島

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  岡山バイパス「加須山交差点」から74号線を北へ、西方に倉敷羽島郵便局がある道へ急角度で曲がり、40mほどで西側に入ると帯江陣屋(おびえ)の碑がありました。

 
  戸川秀安の2代前・富川正実が宇喜多能家に仕えていたことから、秀安は宇喜多直家に仕えました。

子の達安も直家・秀家に仕えていたのですが、慶長4年(1599)に長船紀伊守と対立し、家康側に付きます。

関ヶ原では、島左近を打ち取った功績で備中庭瀬を賜りました。
 

 


戸川氏の始祖肥後守秀安は、備後国門田に生まれ、その先藤原氏と云われています。

名を富川平助といい、戦国動乱に際し幼くして父を失い、流れて美作に居を移します。

長じて宇喜多直家に仕え、戸川と改め平右衛門と称し、その柱石の臣となりました。

宇喜多氏が備前・美作の太守となるや常山城主となり、老臣の出頭となり、晩年友林と号して常山の麓に隠れ世を終わります。

代わって嫡男・達安が継いで、中納言宇喜多秀家の執政となり、のち徳川氏について、慶長5年関ヶ原の戦功により備中国に2万9千石余りを賜り、庭瀬に城下町をととのえたのです。


『現地案内を参照』

 

  
  庭瀬藩を継いだ達安の嫡子・正安は、弟・安尤(やすもと)と安利に分地し、早島知行所、帯江知行所をおこさせました。

その安利が帯江戸川家の始まりなのです。
   

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