竹山城
岡山県美作市下町

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  中国自動車道、「佐用IC」で降りてから国道373号線をさらに北へ、岡山県との県境を越えて2kmほどで、中町交差点となります。

交差点手前から目の前に飛び込んでくるのが竹山です。 一瞬登山をためらわせるほど威圧があるこの山頂には、竹山城(たけやま)があります。

2003年4月、中世戦国時代、赤松氏・山名氏の幾度もの争いに巻き込まれた竹山城、今では宮本武蔵の里として、遠い昔を振り返えさせてくれる、そんな城跡なのです。

 
  「山頂の本丸跡」

東を大手、西を搦手としています。

東から本丸と西の丸、その間に馬場があり、西には「坊主が丸」と本丸の東には「太鼓の丸」があります。

緑豊かな季節になってきました。 周囲をうろうろしたいのですが、草木に足を入れるのは、冬の方がよさそうです。
 

 
太平記にその名が出てくる中世後期の旧吉野郡第一の山城で、城は東を大手とし、西を搦手としています。 山の姿は北高南低、巽の方は竹林が繁茂しており竹山の名がつきました。

東から本丸と西の丸、その間に馬場、西の丸の西方に坊主が丸、本丸の東方に太鼓丸があり、段郭は東方に二ヶ所、馬場の北方に三段あります。

堀切は坊主が丸の西に一ヶ所、井戸の跡は東北西の三ヶ所、門の跡は二ヵ所にありました。

戦国山城の立地条件は、@天然の要害、A重要地点(因幡街道を見下ろす)、B攻撃の拠点、竹山城はこの三つの条件をみたした山城でした。

大原町一帯は山陽側の赤松、山陰側の山名両氏の勢力争いが行われた土地で、新免伊賀守貞重は山陽勢力赤松、浦上、宇喜多と結び、明応二年(1493)山王山城から移ってきて、約二万石を支配したと云われています。

家臣を周辺の諸城要所に配置し、その後、宗貞、宗貫の三代百八年間、関ヶ原敗戦まで在城しています。

武蔵の祖父平田将監、父平田無二斎はこの城の家老であり、剣道師範役としても仕えていました。

標高430mあるこの城跡は町内随一の展望台であり、眼下に宿場町の面影を残す家並と、南に武蔵誕生地宮本を望み、遠く東に美作富士と呼ばれている日名倉山、北東には岡山県最高峰後山が望まれています。

『現地案内を参照』

 

  
「山頂からの眺め
  「山頂からの眺め」

北には大原の街並み、吉野川そして鳥取まで続く因幡街道。 遠くの山々全体が青緑に輝いていました。

本丸の南には、妙に何も生えていない斜面があります。何なんでしょうね。

ここからの眺めはすばらしいです。 いつもの山城は汗かいて、疲れ果てた山頂で感動となるのですが。
 
武蔵生誕の場所からみた竹山
  「武蔵生誕の場所からみた竹山」

右手の麓から舗装された道を車で一挙に登ります。途中で止まると、後ろにずりそうな坂もありますよ。

車1台ぐらいしか通れない箇所や、横を見るとアクセル踏む足がジンジンする場所もあり、早く山頂に着いてほしいと願っていました。

山頂には「町民グランド」がありました。 グランドボールをするのでしょうか、街全体が元気です。

 
武蔵の里の水車
 

「武蔵の里の水車」

この大原町は宮本武蔵の生誕地といわれています。 武蔵は天正十二年(1584)に生まれました。

祖父・平田将監、父・平田無二斎は、この竹山城の家老であり、剣道師範役としても仕えていました。

13才の時、播磨の平福(利神城のあるところ)で、有馬喜兵衛と初決闘をし、29才で佐々木小次郎に勝つまで、六十もの勝負に一度も負けませんでした。

二刀流の兵法を五輪書に残し、晩年は書・絵・彫刻を好み、62才、熊本の千葉城にて亡くなっています。

 
吉川英治先生文恩記念碑
  「吉川英治先生文恩記念碑」

若き頃には「三国志」をはじめ、いかに沢山きれいに並べて置くかに喜びを感じていました。

ゆかりの地には
「武蔵生家跡」 「武蔵神社(武蔵の墓)」 「讃甘(さのも)神社」 「平尾家」 など沢山あり、また剣術のパフォーマンスも面白いですよ。

武蔵とともに中世・戦国時代への想いを「メモしながら歩く」と楽しい探索になると思います。

小説は書けないけど、せめて英治先生の真似をしてみたいと想いに浸っていると、後ろではバスガイドさんが、がんばってメモしてました。

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