三宅城
大阪府茨木市丑寅・蔵垣内

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  名神高速、「吹田IC」から東の14号線で南へ走ります。

東海道本線「千里丘駅」から東へ500mぐらい、阪急京都線西側の道を西を見ながら「蔵垣内公園」を探します。

その公園には三宅城(みあけ)の碑があります。

 
  お城は東西580m、南北540m、少し高くなった所が本丸、水堀もあった。

三宅氏は右京守政明・出羽守国政・美濃守国広・出羽守国村と続きます。

永正(1504)、国政が築いたと伝わる広大なお城、今では残っていないらしいよ。
 

 


三宅城は、丑寅二丁目・蔵垣内三丁目におよぶ小字「城之内」のあたりで、永正一年(1504)に三宅出羽守國政が築き、永正から大永・享禄・天文・弘治を経て、永禄五年(1562)までの五十八年間続いたとされています。

三宅氏の系図でみると、右京守政明・伊賀守清明・出羽守國政・美濃守國広・出羽守國村の名前があげられています。

その頃の城の範囲は、ほぼ東西596m・南北540mと推定されていおり、このなかのやや高まった場所に本丸があったといわれ、かなり立派なものだったと思われますが、くわしくは分かっていません。

しかし小字名に、「堀田」「蓮池」「大名寺池」と呼ばれる地名などがあり、この城のことを知る手がかりになっています。

『現地案内を参照』

 

  
  案内では読みが「みあけ」となっていた、ここも古代朝廷の米倉である「屯倉(みやけ)」があったのかな。

大阪は複雑だね、細川晴国や三好政長も登場してきたね、勝元・政元・高国・晴元・長慶は、やっと覚えられそうだけど。

誰と誰が、何で争っているのか、一度図に書かないと無理みたい、歴史説明も長かったし、ごめんね。 用紙に書いてみてね。
 

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