太田城
大阪府茨木市大田

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  名神高速、「茨木IC」から国道171線を東へ走ります。

まもなく「西河原西交差点」から46号線を北へ、名神高速道路を越えると西国街道、その東の集落には太田城(おおだ)の碑があります。

2006年3月、大阪のお城はまだつづく。 春の陽は昔の物語、もっと沢山話をしたかったよね。

 
  西国街道を東へ歩く、安威川を渡れば大きな会社の倉庫。

大田の街並みは道が細くてT字路、城下町を想いながら道を尋ねる。

昔、この辺りは台地になっていたと、お城の跡を案内していただいた年配の方が教えてくれました。

 


平安時代の末には、兵庫県川西市を本拠とした多田源氏の祖・満仲から九代目の太田頼基(太田太郎)が在城していました。

治承四年(1180)、源頼政が以仁王から令旨を賜らんとした時、王のため馳せさんずる源氏の中に、太田頼基の名が見られます。

文治元年(1185)、平家を滅ぼした源義経が都にとどまっていた時、兄・頼朝が義経を討つため、都へ攻め入るとの噂が流れました。

義経は西国へ逃げのびようとした時、大田頼基は「我が門の前を通しながら、矢ひとつ射かけてあるべきか」といって、河原津で合戦をし敗れています。

大永七年(1527)、細川高国と晴元との間で行われた合戦で、太田城は周辺の茨木城・安威城などと共に、晴元方の部将・柳本賢治の手により落城、その姿を消すのです。

『参考文献を参照』

 

  
西国街道
  「西国街道」

大田城の前で10分ぐらいかな、すっかり話に夢中。

多田源氏 後醍醐天皇や尊氏の頃、赤松氏・浦上氏から宇喜多直家まで。

今は読書会に夢中と言ってたね、聞いていただいて、ありがとう。

ここは西国街道、西には郡山宿本陣、東へ歩いてみるね。
 
継体天皇陵
  「継体天皇陵」

武烈天皇には跡継ぎがなく、権力者・大伴金村は越前にいる応神天皇の五世孫・男大迹王(おほどのおおきみ)を迎えたのが、第26代・継体天皇です。

でも金村は物部尾輿(守屋の父)や蘇我稲目(馬子の父)に政治権力を奪われるよ。

のち金村の子が咋(くい)、その子の智仙娘と中臣御食子との間に生まれたのが中臣鎌足だね。

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